毛利元就が築き上げた中国地方の覇者・毛利家。
その後、孫の輝元は「関ヶ原の戦い」で西軍の総大将を担いながらも積極的な行動を起こさず、結果として敗北を余儀なくされた。
そして毛利家は大幅な領地削減を受けることになる。
それでも毛利家は断絶を免れ、幕末には長州藩として維新志士を輩出するまで存続した。
この毛利家を支えたのが、吉川家と小早川家という二つの重要な家系、「毛利両川(りょうせん)」である。
今回は、この両川がどのようにして毛利家を陰から支えたのかを探っていきたい。
毛利家は三本の矢からなる
毛利元就の逸話の中で最も知られているのが「三本の矢」の話である。
元就は子沢山だったが、とくに毛利家の主力となる三人の息子を死の間際に枕元に呼び、一本の矢を渡して子供たちに折らせた。
一本では矢はすぐに折れてしまった。次は三本に増やして矢を折らせると、矢はなかなか折れなかった。
つまり「兄弟が結束することで毛利家の繁栄を守れる」という教えだ。
しかし、この逸話には矛盾がある。この逸話に登場する長男・隆元は、元就よりに先に死去しているからだ。
そのため、この逸話は後世の創作とされている。
一方、元になったと考えられる史料として「三子教訓状」がある。
この書状は、元就が三人の息子に宛てた14条からなる教えであり、兄弟が結束し、互いに協力して家を支えることの重要性が説かれている。
この書状こそが、「毛利両川」体制の原点を示すものと言えるだろう。
毛利本家の戦国時代の流れ
毛利元就の登場によって、毛利家は中国地方の有力大名として台頭した。
元就は卓越した軍事力と外交戦略を駆使して、大内氏や尼子氏といった有力大名の勢力を打ち破り、その領地を吸収。
一時的に九州北部にまで勢力を拡大した。
また元就は、敵対勢力を打ち倒すだけでなく、自らの息子を他家の養子とすることで間接的にその家を支配下に置く戦略を取った。
次男の元春を吉川家に、三男の隆景を小早川家に養子として送り込み、いずれも正当な継承の形で家督を継承させた。
これが後に「毛利両川」と呼ばれる体制の始まりとなった。
毛利本家では長男の隆元が家督を継いだが、若くして早世した。その後、隆元の子である輝元が跡を継ぎ、吉川元春と小早川隆景の支援を受けながら、戦国時代の混乱を乗り越えていくことになる。
武勇に優れた次男・吉川元春
吉川元春は元就の次男であり、幼少期から武勇に優れた将としてその名を馳せた。
12歳で初陣を果たしたとされ、その後、数多くの戦場で活躍を遂げた。
戦歴については「76戦64勝12分無敗」とも伝えられるが、この数字は後世の脚色が含まれている可能性が高い。
とはいえ、元春が卓越した武勇を持つ武将であったことは、疑いの余地はないだろう。
元春が吉川家を継いだ背景には、当時の吉川家の不安定な状況があった。
安芸の名門(藤原南家の血を引く)であった吉川家は、当主の興経の政治的な迷走や繰り返される裏切り行為により、家中や周辺勢力からの信頼を失っていた。興経の行動は、元就率いる毛利家にとっても脅威と見なされていた。
こうした状況を打開するため、元就は次男の元春を吉川家の養子として送り込み、興経に隠居を迫った。
興経は幽閉されるが、その後も不穏な動きがあったため、最終的には元就の指示で粛清されるに至る。これにより、元春が新たな当主として吉川家を再編。以後、吉川家は毛利家の一翼を担う重要な勢力となったのである。
元春は厳島の戦い、尼子攻めなど数々の戦いで武勇を発揮し、毛利家の中国地方での勢力確立に大きく貢献した。
天正10年(1582年)末ごろ、元春は嫡男の元長に家督を譲り、隠居する。
これは、織田信長の死後、台頭する秀吉に仕えることを嫌ったためとも伝えられる。
この頃、元春は隠居館を建設する準備を進めていた。
この館は「吉川元春館」と呼ばれるが、元春の生前には完成しなかった。
天正13年(1585年)には、毛利家が秀吉の四国征伐に協力する中、吉川軍は元長が総大将として出陣したが、元春自身は参戦を見送る。
その後、天正14年(1586年)、天下統一を目指す秀吉の強い要請に応じ、弟の隆景や甥の輝元らの説得を受けて九州平定に参加する。
しかし、この時すでに元春は体調を崩し、病に蝕まれていた。
九州出征中の同年11月15日、豊前国小倉城二の丸にて死去した。享年57。
家督を継いだ長男の元長も半年後に亡くなってしまい、三男の広家が継ぐことになる。
智勇に優れた三男・小早川隆景
小早川隆景は元就の三男として生まれ、幼少期から優れた器量を期待されていた。
天文13年(1544年)、隆景は安芸国竹原庄を本拠とする竹原小早川家に養子入りし、その後、沼田小早川家の当主が元就によって隠居を命じられ、隆景が家督を相続した。これにより、竹原と沼田の両小早川家は統一され、小早川家は隆景のもとで新たな時代を迎える。
特筆すべきは、小早川家が強力な水軍を擁していた点である。
この水軍は、瀬戸内海の制海権をめぐる争いにおいて重要な戦力となり、毛利家の勢力拡大を大きく支えた。
隆景は戦場での活躍だけでなく、外交面でも非凡な能力を発揮した。
秀吉からの信任も厚く、四国征伐や九州征伐では大きな功績を挙げた結果、伊予35万石を与えられ、さらに九州征伐後には筑後・筑前・肥前一郡を合わせた37万石を拝領するに至った。
これらの功績は、隆景が単に毛利家の一員としてだけでなく、豊臣政権下においても重要な存在であったことを物語っている。
一方で、隆景には実子がいなかったため、初めは毛利元就の九男・秀包(ひでかね)を養子に迎えていた。
しかしその後、秀吉の圧力を受け、後に秀吉の養子である秀秋を新たに養子とした。
後に「関ヶ原の戦い」で西軍を裏切ったことで有名な、小早川秀秋である。
これは当時、毛利家当主の輝元に子がいなかったことで、秀吉が秀秋を毛利家の養子として送り込もうとする動きに、隆景が対抗した策であった。
つまり、小早川家が代わりに秀秋を受け入れることで、毛利家の独立性を守ったのである。
隆景の冷静かつ柔軟な対応は、毛利家全体を守る上で欠かせない役割を果たしたと言えるだろう。
毛利両川体制のその後
吉川元春と小早川隆景が相次いで没した後、両川体制はどうなったのだろうか。
小早川家は当主が秀秋になったことで両川体制から外れ、代わりに毛利秀元(元就の四男・穂井田元清の子)が、その役割を担うことになった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当主の輝元が西軍の総大将に就任したが、大坂城に留まって出陣しなかった。
一方で、吉川広家は東軍と内通し、毛利軍の主力が戦闘に参加できない状況を作り出した。
さらに、小早川秀秋も戦いの最中に東軍へ寝返り、西軍の敗北を決定づけた。
毛利家は西軍の主要な勢力でありながら、内部で意見が割れた結果、統制を欠いた状態で戦局を迎えた。こうした中途半端な対応が良くも悪くも奏功し、戦後のお家断絶は免れた。しかし、大幅な減封を受けたことで、毛利家の勢力は大きく後退した。
小早川家は、秀秋が東軍に寝返った功績で一時的に存続したものの、数年後に秀秋が急死したため断絶した。
吉川家は、広家の内通が原因で毛利本家との関係が険悪化し、この不和は幕末まで尾を引くことになる。
毛利両川体制は、元春と隆景という柱を失い、関ヶ原の戦いを契機に完全に崩壊したと言えるだろう。
おわりに
毛利元就が三子教訓状に記したように、毛利家は三つの家が結束してこそその力を発揮できた。
関ヶ原の戦い後、家中の足並みが揃わず、元就の教えが守られなかったことが家の弱体化を招いたとも言えよう。
もし関ヶ原の戦いで毛利家が結束していれば、総大将としての輝元が西軍でより大きな影響力を持ち、結果は異なったかもしれない。
しかし、元就自身は「天下を競望せず」という言葉を遺しており、毛利家が天下を目指すことが必ずしも吉とならないことを予見していたとも言える。
その後、毛利家は滅びることなく、幕末において長州藩として再び歴史の表舞台に立つことになる。
元就の教えは、時代を越えてその根底に生き続けていたのかもしれない。
参考:『戦国大名家臣団 興隆と滅亡』『三子教訓状』他
文 / 草の実堂編集部
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