三国志演義に登場しない名将
三国志の世界に入るきっかけは人の数だけあると思うが、筆者が『横山三国志』から入ったように、基本的には小説『三国志演義』をベースにした作品から入る人が多いだろう。
しかし『三国志演義』は「三国志を題材にした創作物」であり、周倉や貂蝉のように知名度は高いが実在していない架空の人物も多く存在する。
そしてそれとは逆に、陳寿が著した『正史』に活躍した記述があるものの『演義』には登場しない人物も存在するのだ。
今回は、演義には登場しないが正史で大活躍している呉の名将・賀斉(がせい)を紹介したい。
知られざる呉の名族
演義には登場しない賀斉だが、その血はなかなか立派なものであり、遡ると紀元前の前漢の学者・慶普(けいふ)に辿り着く。
賀斉の祖先である慶氏だが、安帝の時代(106年~125年)に安帝の父親が劉慶という名前だった事から「慶」という名を避けて「賀」姓に改めたという。
父親の賀輔も、永寧県の長を務めたキャリア組であり、賀斉の一族は紛れもない呉の名族であった。
演義では描かれない賀斉の活躍
県の役人としてキャリアをスタートさせた賀斉だったが、同じく役人である斯従(しじゅう)という者が悪事を働き周囲を困らせていた。
賀斉は斯従を取り締まろうとするが、現地に於ける斯従の影響力は大きく、側近からは「ここで斯従を斬ったら、地元の豪族や異民族の山越(さんえつ)が反乱を起こします!」と反対される。
しかし、それを聞いた賀斉は更に腹を立てて、斯従を斬った。
すると周囲の不安通り反乱が起こった。
斯従の一族は千人以上の者を集めて賀斉のいる役所に攻め込むが、賀斉は見事に反乱軍を打ち破り、その後も反乱鎮圧に尽力したという。
196年、孫策が会稽郡を手に入れると、賀斉を孝廉に推挙して自身の配下にする。(※孝廉とは、郷挙里選の一種で、有力者によって儒教的な教養と素行を兼ね備えている人物が推挙された)
孫策配下となった賀斉は、ここでも反乱の鎮圧にその手腕を発揮する。
指揮官としての才能は勿論、過去の実績において山越にその名が知られ、対異民族への抑止力となっていたのが大きかった。(山越軍が呪術を使って呉軍を惑わせたところ、賀斉がそれを打ち破ったという伝説もある)
孫策が早逝し孫権の代になった後も、呉では反乱が頻発したが、賀斉は多数の反乱の鎮圧に貢献している。
演義には登場しないが、呉に於いて欠かせない存在となっていたのだ。
合肥での活躍
賀斉は、正史の記述では反乱の鎮圧が多いため「反乱鎮圧の専門家」という印象を受けるが、演義でも名場面の多い「合肥の戦い」にも従軍しており、ここでも活躍している。
呉の徐盛(じょせい)が、魏の名将・張遼(ちょうりょう)の攻撃を受けて負傷し、軍の旗まで奪われてしまった。
そこに現れたのが賀斉で、張遼を撤退させて徐盛を助出するとともに、奪われた旗を取り戻している。
賀斉の見せ場は、これだけでは終わらない。
この時の張遼は「リアル三國無双」と言えるほどの恐るべき武勇で、後に江東では「遼来遼来(張遼が来るぞ)」と言えば子どもが泣き止んだという。これは「泣く子も黙る」という言葉の由来ともされる。
張遼の異常な武力と合肥の戦い【正史の方が活躍していた】
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そんな張遼の急襲から、命からがら逃げ延びた孫権を保護したのは、他ならぬ賀斉だった。
孫権の無事に安堵した賀斉は「御主君に何かあったらと思うと、私たちは天も地も失うような気分だった」と涙を流したという。
合肥の戦いにおける賀斉の活躍は、呉軍の中でも際立ったものであった。
ハイカラ船団の船長?派手好きだった賀斉
その後も賀斉は、反乱の鎮圧や、魏の侵攻撃退など多くの戦功を挙げ、黄武6年(227年)に死去した。
最後に、賀斉の人物像を伝える逸話を紹介しよう。
賀斉は非常に派手好みの人物で、その武具は豪華絢爛に飾り立てられていた。それは配下も同様で、とにかく派手な賀斉の軍は戦場で目立っていたという。
武具や装飾にいくら金を使っていたのか気になるが、さすがに配下から武具代の徴収はしないであろうし、孫権が特別に資金を提供したという記述もない。そのため、相当な額を賀斉が負担していたはずだ。
主君の孫権より派手な出で立ちの軍を批判する声もあったが、孫権は「賀斉は結果を出している。軍を立派にすることの何が悪いのか」と一蹴したという。
さらに、呉軍に欠かせない船団においても、賀斉の派手好みは存分に発揮されていた。
賀斉の船は彫刻や彩色で飾られ、青い傘(パラソル)に赤い幔幕(カーテン)まで用意されるなど、三国時代の船にしては時代を先取りしすぎるほどハイカラな装備で固められていたという。
その様は山のようであり、賀斉の船団を見た魏の曹休が逃げ出したと言う逸話もあるが、どのような船だったのか、非常に気になるところである。
賀斉は『演義』に登場しないことで知名度が低いが、もっと多くの人々に評価されるべき名将であることは間違いないだろう。
参考 : 『正史 三国志』『三国志演義』
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部
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