井伊直政は遠江国の井伊谷に生まれた。
父は井伊直親であったが、領主だった今川氏真に謀反の疑いをかけられ、殺害された。直親が殺害されたとき、直政は幼少で虎松と名乗っていた。
直政が元服するまでおんな城主として知られる井伊直虎が井伊家を守っていた。
今川氏真が武田信玄と徳川家康に攻められて領国を捨てて逃亡すると、虎松は徳川家康の小姓となり、井伊家は徳川家康に従うことを決めた。虎松は1582年に元服して井伊直政と名乗るようになる。
井伊直政は美男子だった
「容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」(甫庵太閤記 塩尻 徳川実紀)など美男子だったと伝えられ、秀吉が天下統一する前に家康に懐柔策として人質を送ったのだが、その人質であった秀吉の母の大政所やその侍女たちは、直政に惚れ込んでしまったと言われている。
また直政は家康の小姓であり、家康は自宅の庭の近くに直政の住居を作って、足繁く通っていたという。
初陣から本能寺の変まで
井伊直政は井伊家復興を目指して数々の武功をあげた。
初陣では会の戦国大名武田勝頼との戦いで、徳川家康の寝床に侵入してきた敵を倒した。1576年の田中城攻めでも活躍を見せている。1581年には難攻不落と言われた高天神城を落とすことに成功した。水脈を断つことで武田軍に大打撃を与えた。初陣から数多くの城を落とすなどの実績によって家康の評価が高くなったと言われている。
1583年に天目山の戦いで武田勝頼は負け、戦国大名の武田家は滅亡した。その年に武田家が滅んだことを祝して、徳川家康とともに安土・堺に来ていた。
1583年6月に本能寺の変で家臣の明智光秀の謀反により織田信長が自害したという知らせが入り、本能寺の変で信長が自害したという知らせが入ると、井伊直政は徳川家康を守りながら伊賀の山越えをした。
本能寺の変後から関ケ原の戦いまで
本能寺の変の直後、徳川家康は天目山の戦いで滅亡した武田家の家臣を積極的に登用していた。
理由として次のことが考えられる。三方が原の戦いで徳川家康は武田軍団に敗北したが、武田信玄の騎馬軍団が一糸乱れぬ動きをして団結力があったことを高く評価していたと考えられるからである。武田家が滅んでから、家康は武田流の兵学を学ぶために武田家の家臣を多く登用していた。
本能寺の変後から井伊直政の甲冑の色が変わる。徳川家康の命令で、甲冑を上下赤で統一するように言われた。
上下赤で統一した甲冑については、武田信玄の家臣で飯富虎昌が上下赤で統一した甲冑で戦っていたが、当時、飯富の赤備えと呼ばれていた。飯富虎昌に倣ったのではないかと考えられる。
直政が上下赤で統一した甲冑で最初に戦うのは1584年の小牧・長久手の戦いで、以降赤で統一した甲冑で出陣する。井伊の赤備えとか井伊の赤鬼と呼ばれるようになる。
豊臣秀吉は小牧・長久手の戦いに負けてから、家康に対抗するために関白に就任し、家康は豊臣家の家臣として従うことになる。
1590年、豊臣秀吉は最後まで抵抗していた関東の北条氏政・氏直親子を小田原合戦で滅ぼした。
小田原合戦後、論功行賞で徳川家康は関東地方に移ることになった。家臣も家康に従って関東地方に移り、井伊直政は上野国(現在の群馬県)の箕輪城に入ったという記録が残っている。
1600年、井伊直政は関ケ原の戦いで東軍として参加している。この戦いでは家康の娘婿にあたる松平忠吉の補佐役として出陣している。この戦いで、2千の兵で大軍のいる徳川家康の本陣を目指して突進してきた島津の兵と戦いになった。この戦いは島津の退き口と言われ、島津の兵は退却することに成功し、直政は島津の兵を追撃する際、足を負傷した。
関ケ原の戦い後の井伊家
関ケ原の戦い後、井伊直政は論功行賞で近江国の佐和山城に移ることになった。佐和山城に移った後、1602年に直政は関ケ原の戦いの傷が原因で死亡した。
1603年に彦根城が完成し、拠点が佐和山城から彦根城に移った。これが彦根藩主井伊家の原点になる。
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