安土桃山時代

豊臣秀吉による天下統一の総仕上げ・奥州仕置(おうしゅうしおき)

小田原征伐以後

葛西大崎一揆と九戸政実の乱

豊臣秀吉による天下統一と言えば、関八州を支配していた後北条氏に対する小田原征伐によって完遂されたという印象をお持ちの方が多いのではないかと思います。

後北条氏の旧領である関八州に徳川家康が配されたことや、後北条氏の居城であった堅城・小田原城を豊臣勢の20万を越えると言われた大軍で包囲、圧倒的な力の差を見せつけてこれを降伏させたことで、秀吉の威光があまねく広がったことから、これをもって天下統一が成されたと見られがちです。

しかしこの後に、奥州の諸大名を完全に従えることになった交渉・軍事行動が奥州仕置(おうしゅうしおき)と呼ばれる、本当の意味での豊臣政権の天下統一の総仕上げ事業でした。

小田原征伐

秀吉の奥州への介入は、天正13年(1585年)に先行して金山宗洗を遣わしたことから始まりました。

宗洗の交渉の結果、天正16年(1588年)9月には最上義光伊達政宗が秀吉への臣従の意を示したことで、当初は交渉のみで順調に進んでいました。

秀吉は翌天正17年(1589年)1月に政宗に対して、同年前半における上洛を促しました。しかし、その頃の政宗は秀吉への面従腹背の状態にあり、蘆名氏の領地である会津への侵攻を行っていました。

秀吉は自らの上洛の要請を黙殺した上、会津を攻めた政宗の行動を許さず、政宗が会津から兵を引かないのであれば、討伐軍を差し向ける意思を示しました。

同年11月、後北条氏が真田領を侵犯したことから、先に後北条氏の征伐が決定され、翌天正18年(1590年)に豊臣方の諸大名を従えた小田原征伐が行われました。同年7月、後北条氏は降伏しここに戦国大名としての後北条氏は滅亡することになりました。

宇都宮仕置

秀吉は天正18年(1590年)7月17日に小田原征伐の余勢を駆って、宇都宮国綱らと下野に進み、同年7月26日には宇都宮城への入城を果たしました。ここへ関東や奥羽の諸将も集められて、一旦、宇都宮仕置と呼ばれる処分が行われました。

秀吉が到着する前には、常陸の佐竹義宣、陸奥北部の南部信直が先行して宇都宮へ入城しており、先ず南部信直に対する所領内の安堵がなされました。続いて8月1日に佐竹義重に対して常陸を含む54万石の所領安堵が申し渡されました。

政宗は、前年に蘆名氏を破って150万石に迫る領国を保有していましたが、小田原征伐への遅参と、会津侵攻自体が豊臣政権の定めた惣無事令に反してい点を追求され、一部が没収されることになり約72万石の領地へと削減されました。

浅野長政の平定

※浅野長政

以後秀吉は、政宗を先導させて宇都宮から北へ兵を進めました。

同年の8月に会津黒川城へ入城すると、以後は秀吉方の奉行を務めた浅野長政が陣頭に立ち、鳥谷ヶ崎へと兵を進めました。その地でさらに周辺の諸将を糾合すると、奥州仕置軍を編成して平泉まで侵攻しました。

こうして、一旦ほぼ奥州全土の平定が行われました。

加えて長政は家臣らを代官に据えて占領した土地の管理を進め、豊臣政権の政策に沿う人材を配置し、検地を推し進めて支配を加速させました。こうして奥州の統治の安定が一通り終了したところで、長政らの兵はその任を終えて散会・撤収しました。

豊臣政権の天下統一

こうして豊臣政権の奥州平定が完了し、それに伴い天下の統一も達成されました。

尚、この時に奥州の諸大名の処分として、まず小田原征伐に加わらなかった葛西氏、大崎氏は没収・改易となりました。これらの改易された領地には、蒲生氏郷木村吉清などの豊臣政権の大名臣が送り込まれ、新たな領主として統治を行いました。

奥州仕置は、比較的容易になされたように見えましたが、豊臣政権の統治が始まった後に大きな問題が発生することになりました。

これは豊臣政権の統治方法への急激な移行から、奥州に点在した旧勢力の残党、また一応所領を安堵された大名においても、その進め方・やり方に不満が高まった結果と言えました。

葛西大崎一揆と九戸政実の乱

結果、改易となった葛西氏や大崎氏の旧領において大規模な反乱である葛西大崎一揆が発生しました。続けて和賀・稗貫一揆仙北一揆などの反乱が奥州の各地で多発することになりました。

葛西大崎一揆と九戸政実の乱

※九戸城の堀 wikiより

また所領を安堵されていた南部氏への反発から、同族である九戸政実(くのへまさざね)が挙兵した、九戸政実の乱も発生しました。

こうした一揆・反乱の頻発から、豊臣政権は再度、討伐の兵を派遣する殊になりました。

そうして、大谷吉継上杉景勝らとその配下の旗本が出陣し、仙北一揆が制圧されました。更に翌天正19年(1591年)7月、政宗をはじめ、豊臣秀次、徳川家康らの兵によって、葛西大崎一揆が制圧されました。

最終的に同族内での内乱となっていた九戸政実の乱は、豊臣秀次を総大将に据えた約3万の兵に、家康や前田利家らも出陣し、発生から1年以上かかってようやく鎮圧されたのでした。

この乱はかなり残虐な結末となったことでも有名です。詳しくは

九戸一族とおかんの悲劇について調べてみた

 

 


天を衝く 秀吉に喧嘩を売った男九戸政実

swm459

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