安土桃山時代

服部正成 ~半蔵門の由来となった二代目服部半蔵

槍の遣い手の二代目半蔵

服部正成 ~半蔵門の由来となった二代目服部半蔵

※和槍 wikiより

服部正成(はっとりまさなり)は江戸城の半蔵門にその名を遺した徳川家康の家臣ですが、後年の創作とは異なり自身は忍者ではなく、忍者らを支配下に置いた人物で槍の遣い手としてその名を知られた武士でした。

半蔵という通称も正成の父であり、こちらは実際に忍者であったと言われている服部保長(初代服部半蔵)以後、服部家の当主が継承していたものであり、その中でも最も有名なのがこの二代目半蔵であった正成です。

鬼半蔵」との別名をとった正成は大名にこそなっていませんが、最終的には8,000石を領する大身の旗本でした。

三方ヶ原の合戦でも活躍

服部正成 ~半蔵門の由来となった二代目服部半蔵

※三方原の戦い

正成は、天文11年(1542年)に父・保長の四男として三河に生を受けました。家康がその1年後の生年のためほぼ同年代と言えます。

父・保長は家康の祖父にあたる松平清康の代から松平氏に仕え、正成もその流れで家康に仕えるようになったと伝えられています。

正成は16歳の時の弘治3年(1557年)の初陣において早くも武功を挙げ、家康から直接褒美を賜ったとされています。

また正成は元亀6年(1572年)の武田信玄との三方ヶ原の合戦にも従軍し、この合戦で徳川勢は敗北を喫したものの、正成自身は武功を挙げ、その功で家康から槍を授けられると同時に伊賀衆150人を束ねることになったと伝えられています。

介錯役を果たせず逆に評価

正成の巷説としてよく知られている逸話のひとつに、家康の嫡男・信康の介錯を全うできなかったというものがあります。

これは天正7年(1579年)に起きた事件で、家康の同盟者であった織田信長に、信康とその母・築山殿の武田家への内通を疑われて自決く余儀なくされたとうものでした。

この際、家臣の中でも武勇の誉れの高い正成が信康の介錯役を家康から任されたものの、主君に刃は向けられぬとして、その任を果たすことが出来なかったと伝えられているものです。
この正成の態度を家康は改めて評価したとされ「三河物語」に記されている逸話ですが、真偽のほどは定かではありません。

伊賀越えでの正成

服部正成 ~半蔵門の由来となった二代目服部半蔵

※伊賀国

正成が家康の生涯最大の窮地を救った働きとして語り継がれている出来事が「伊賀越え」です。

これは天正10年(1582年)の6月に織田信長が明智光秀に討たれて横死した「本能寺の変」の際の逸話です。

このとき家康一行は安土の信長を訪れた後、大坂の堺に滞在していました。随行していた家康の家臣は正成を始め本多忠勝穴山梅雪らのほんの僅かな供廻り30名という少数でした。ここで家康一行は光秀勢の追っ手を逃れて領国の三河を目指しました。その中で堺から伊賀を通って伊勢へ抜け、そこから海路で三河に逃れるという道を選びました。

この時、正成は、家康の御用商人であった茶屋四郎次郎と共同して伊賀・甲賀の国人らを味方につけ、無事この逃避行を成功させる役割を担いました。
これには正成が伊賀の出であったことと、茶屋四郎次郎が提供した黄金の力の賜物であったとも伝えられています。

因みにこの時から伊賀衆のみならず甲賀衆も徳川に仕える勢力となったとされています。

半蔵門の由来

正成は天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原・北条攻めにも従軍し、戦後にこの関東に家康が封じられると8,000石を拝領し、同時にすべての伊賀衆・甲賀衆を束ねる立場となりました。

しかし正成は、慶長元年(1597年)に死去し、自身は徳川幕府の成立を目にすることなく世を去りました。

服部家の家督は子の正就が半蔵の通称と共に受け継ぎ、正成が警護を担ったとされる江戸城の西端の門は「半蔵門」と称され、今でも地名として遺されています。

後年の創作から忍者として描かれることが多い正成ですが、れっきとした武士として家康に仕えた生涯でした。

関連記事:
伊賀、甲賀、風魔忍者の違いについて調べてみた

アバター

swm459

投稿者の記事一覧

学生時代まではモデルガン蒐集に勤しんでいた、元ガンマニアです。
社会人になって「信長の野望」に嵌まり、すっかり戦国時代好きに。
野球はヤクルトを応援し、判官贔屓?を自称しています。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 【旗本百人腹切り場所】 豊臣秀吉への怨念がうずまく「岸岳末孫」の…
  2. 本多忠勝はどのくらい強かったのか?【戦国最強武将】
  3. 蘆名義広【角館城下町を築いた浮き沈みの激しい人生を生きた武将】
  4. 黒人の侍「弥助」はなぜ織田信長に仕えたのか?
  5. 『三成に過ぎたるもの』行方不明になった猛将・島左近 ~関ヶ原で東…
  6. 武家官位について調べてみた【暗黙のルールがあった】
  7. 【影の太閤】 秀吉の弟・豊臣秀長 「長生きしていれば豊臣家の天下…
  8. 雑賀孫一と雑賀衆【信長を何度も苦しめた鉄砲傭兵集団】

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

平安時代の女性たちの恋愛術 「美人の条件、出会いの場、陰湿なイジメ」

後宮とは平安時代、京の都には江戸時代の大奥と同じような嫉妬渦巻く女の園があった。…

外国人から見た戦国末期から江戸時代の日本

16世紀半ばから17世紀半ばは「キリシタンの世紀」と呼ばれるが、同時にスペインやポルトガルなどとの南…

小田原城の歴史について調べてみた

神奈川県の西部に位置する小田原は、戦国時代には南関東一円を支配する北条家の拠点であった。その中心が小…

【義理人情なし!】 すぐに裏切る『ギリワン』戦国武将4人衆とは

歴史や戦国時代が好きな人は、コーエーのゲーム『信長の野望』をプレイしたことのある人も多いだろう。…

「剣豪」から「名指揮官」に変貌した土方歳三 【日本最大の内戦~戊辰戦争】

土方歳三とは土方歳三(ひじかたとしぞう)は、幕末において新選組の「鬼の副長」として恐れら…

アーカイブ

PAGE TOP