小栗上野介とはどのような人物であったのか?
※小栗上野介(小栗 忠順)
最後に、埋蔵金伝説の重要人物と言われている小栗上野介という人物はどのような人物であったのか調べてみました。
小栗上野介は、文政10年(1827年)に江戸の駿府で生まれました。幼名は剛太郎と言います。8歳の頃から剣術や漢学や柔術、砲術などの勉強を始め、17歳のとき、初めて登城し、21歳のときから城中に出仕しました。
安政2年(1855年)、29歳のとき、父親が病死し、家督を継ぎ、又一と改名しています。
安政6年(1859年)、33歳のとき、アメリカへ条約批准の目付としての任についています。
批准とは、全権委員が署名して内容の確定した条約を、条約締結権をもつ国家機関が確認し、これに同意を与えること(大辞林 第三版より)で、国の存亡をかけた重要な任務にあたったことになります。
翌年の安政7年(1860年)、34歳のとき、条約文書交換のため米艦ポーハタン号で品川から渡米し、当時の大統領であるブキャナン氏に謁見するとともに、外国事務宰相レウス・カス氏と会見し、条約の批准を交換し、帰国しています。また、帰国後は、外国奉行に任ぜられています。
※ワシントン海軍工廠での使節団 監察 小栗忠順(前列右から2人目)出典wiki
そして、文久2年(1862年)、36歳のとき、勘定奉行に任ぜられ、小栗上野介と名を改めています。
翌年の文久3年(1863年)、37歳で陸軍奉行に任ぜられ、元治元年(1864年)、38歳のときに横須賀に造船所を建設し、同年、軍艦奉行に任ぜられています。
そして、40歳のとき、海軍奉行、41歳のときに、勘定奉行兼陸軍奉行に任ぜられましたが、慶応4年(1868年)に主戦論(徳川慶喜公の意に反して、薩長と戦うこと)を主張したことを理由として罷免されています。
罷免後は、群馬県の権田村に隠棲をしましたが、4か月後に薩長軍の追討令により群馬県の水沼河原で処刑されました。
詳しくは → 高崎市倉渕町の水沼河原・観音山・相間(あいま)川など
ここで、素朴な疑問もでてきます。
それは、もし小栗上野介が埋蔵金の所在を知っていたのであれば、薩長軍はまず彼を捉え、埋蔵金のありかを聞き出すと筆者は思うのですが、なぜか、そのような記録は残っていません。
最後に
いつの時代においてもロマンは求めたいものです。
埋蔵金伝説は、そんなトレジャーハンターの夢を与える伝説だと思います。
幕末の徳川埋蔵金には、38もの諸説があり(徳川15代のすべてがわかる本より)、信ぴょう性の高いものから低いものまでいろいろありますので、ひとつずつ検証していくのもおもしろいと思います。
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