もし突然、家族の誰かが危篤状態でICU行きになったら?!闘病生活が続き「障害者」と医師に宣告されたら!?
本人もその家族も日常生活が逆転し今まで以上にお金もかかる。そこで必要となるのが「身体障害者福祉制度」である。
各市町村の役所・市役所に届け出なければ手帳はできない。障害者該当枠は、厚生労働省で決められている該当者でなければ制度は利用できない。その該当枠とは?
自分が去年経験した「父の闘病生活」そして医師の宣告、障害者手帳発行までの手続きまでの流れをお教えします。
父が危篤状態でICUへ
「ご家族の方、全員呼んで下さい!!」救急車で緊急搬送され、即ICUへ運ばれた。
「人口呼吸器につなぎます。抜管できなかったらそれなりの覚悟を・・」
苦しくベッドで暴れる父、拘束状態である(承諾した)。数時間病院のICUの病棟の椅子に座り、心臓外科医と内科の医師の説明を受けた。心臓にバイパスを通した跡らしき、血が腕と父の強靭な胸に拭き取られる事なくついていたのを覚えている。
バイパップをつけ個室へ移動となる。私は泊まり込みになる。
個室から一般病棟へ移されて数日経過した日、主治医から「ちょっとお話があります」と呼ばれた。「自宅に帰っても酸素吸入器・マスクは必要になります」と言われた。
そして医療機器レンタル会社の社員が機器の使い方と月にかかるレンタル料金の説明をした。私は先生に「機械なしで家に帰して欲しい」と懇願した。しかし先生は了承してくれず、心の中で私は「父は身体障害者になったんだ」とはっきり確信した。
父は「酸素なんかなしで帰る」そう口々に言っていた。私も「そうだね」と心とは裏腹に父の前で笑って見せた。
奮闘の日々が始まった。私のかかりつけ医の病院の「生活指導員」の方に通院しながら、相談にのってもらい、その足で父の病院へ行く・・そんな日々が続いた。
身体障害者福祉制度該当とは?
父の担当の医師は優しい方で「身体障害者福祉制度の案内」というパンフレットを持ってきて下さり、別室で丁寧に説明をしてくれた。(上図)
父は「内部障害」の3級にあたるかもしれないという。「しれない」と言うのは、判断するのは市町村の役場の福祉課の調査員で、対象者(父)の状態を聞き取り判定するからである。市役所に電話をし日取りを決め、父の主治医にも了解を得て、私立ち合いの元、調査員の方は聞き取りを始めた。丁寧でありながら以外に早く終わった。
認定は約2カ月程度かかると聞いた。父が緊急搬送~入院してすでに2カ月経過していた。
障害者程度別該当制度とは?
簡単に言ってしまえば認定されて使える制度の事である。
階級が決まれば、自宅に連絡がきて以下のもの(1・2以外)市役所へ持参し、本人がいけない場合、代理人として(証明できるもの)を持ち手続きをするのである。
1、申請書
2、医師が作成した診断書
3、写真(縦4cm×横3cm)
4、マイナンバーカード
5、印鑑
父の主治医の先生は私に具体的に話をしにきてくださった。
「診断書書くのは、構わないのですが・・3級だとあまり必要とされない方もいますが、どうしますか?」
私は今後の事を考えないよりあった方がいいと思い「書いて下さい」とお願いをした。
私は父の前で「障害者」という言葉を使わない事を心がけた。今まで人一倍働き、動いていた父の姿をよく知っていたから・・そして「障害者」という言葉が、元健常者だった人間の心をどれだけ重く、暗い影を落とす事になるか、私はよく知っていたからである。
自分が「自立支援医療制度」認定者だから・・
約3ヶ月間の入院生活を得て、桜咲く3月父は退院した。
まとめ
酸素吸入器、酸素ボンベカートを引きながら、自宅に帰ってきた父だったが、私は嬉しかった。「目の前にいて・・そこにいて・・笑っている」ただそれだけでいいのだ。
自宅近くの公園では、桜が満開に咲いていた。残念ながら雨だったが、母も連れて車中からの花見に出かけた。
そして4月・・市役所から連絡がきて私は、父の代理人として「身体障害者認定」の手続きに行った。
母はそんな私の事を「仕事をしていない暇な人間だから、市役所にいけるだよ!みんな仕事をしてるがね!!」と口を滑らせた。いつも感情に任せ、ヒステリックにものを言う母だが・・私は今でも傷ついている。父が退院し酸素の管理・入浴介助・深夜に渡る介護を私がやっている。(ヘルパーの資格を持っている)それを知っている母親に「暇人だから」と言われ、健常者でない自分にいつも問いかける。
「健常者は仕事と介護の両立を皆100%こなし上手くやっているのか」と。
今も父の通院の同行・自分の通院・母の通院の同行・深夜に渡る介護をやりながら出るはずもない答えを追い続けている。
あれから1年・・今、父は目の前にいてくれる。
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