殺人ピエロ
1994年5月10日の深夜、アメリカである一人の犯罪者が死刑に処されました。その男の名前はジョン・ウェイン・ゲイシー。
1972年から1978年の約6年間のあいだに33名の青少年を殺害した彼の凶行はアメリカ全土を震撼させました。
彼は苦しい生い立ちから敏腕ビジネスマンとして成功し、平時はピエロの仮装で周囲の子供たちを楽しませていました。しかしアメリカンドリームの体現者の正体は、恐るべき殺人鬼だったのです。
誰もが羨む成功を手にした男が、何故このような凶行に及んだのでしょうか?
今回はスティーブン・キング原作の恐怖小説「IT/イット」に登場する悪魔ペニー・ワイズのモデルとも称される、恐怖の殺人ピエロについてご紹介します。
生い立ち
1942年3月17日、ジョン・ウェイン・ゲイシーはイリノイ州シカゴでポーランド系の父・ジョン・スタンリー・ゲイシーとデンマーク系の母・マリオン・エレイン・ゲイシー夫妻の間に誕生しました。
父親であるスタンリーは第一次世界大戦にも従軍したことのある熟練機械工で、極貧の幼少期を過ごした彼は「人には負けない」「弱みを見せてはならない」という人生哲学を骨の髄まで染み込ませた人物でした。
しかし、スタンリーは脳内に腫瘍を抱えており精神疾患の持ち主であったため情緒は不安定であり、周りからは変わり者として扱われていました。
その後、ゲイシー夫婦の間に待望の男の子が誕生し、スタンリーは大いに喜びます。
スタンリーは当時のアメリカで流行していた西部劇の名優・ジョン・ウェインから自分の息子にも同じ名前を名付けますが、ここである事実が発覚します。
生まれたばかりのジョンに心臓疾患があることが分かったのです。
それを知ったスタンリーは「自分の息子は出来損ないだ」と落胆し、ジョンに対して一切興味を抱かなくなりました。
虐待の日々
ジョンを見限ったスタンリーはジョンに対して「しつけ」と称し、連日徹底的な虐待を行うようになります。幼いジョンが小さな失敗をやらかす事にスタンリーは革砥(刃物を研ぐ帯状の革)で、徹底的にジョンを打ちのめしました。
また、ジョンが4歳の時に近所のノルウェー人少女から性的いたずらを受けたことがありました。しかし、それを聞いたスタンリーは心配するどころかジョンを殴りつけ、「このクソガキ、男のくせに女にされるがままにされやがって!」と罵倒します。
ジョンが6歳の時には、無理矢理家のペンキ塗りを手伝わせて「塗料がマダラになった!」と難癖を付けて理不尽な暴力を振るったこともありました。
一時は母親のマリオンが止めに入りましたが、逆にスタンリーに半殺しにされてしまったため、彼女はスタンリーを恐れ、それ以降何も出来なくなってしまいます。
ジョンが10代になっても虐待は続けられ、スタンリーはことあるごとに「オカマ野郎」「クズ」「出来損ない」などジョンに暴言を吐き続けます。
肉体と精神の両面を痛め続けられたジョンは、パニック障害や心臓発作を頻繁に起こすようになりますが、彼は罵倒されるのが嫌でストレスや体の不調を我慢し、必ず失神するようになりました。
この発作のため、ジョンは14歳から18歳までの間で1年以上の入院治療と、高校が4つ変わりました。
その結果、落第となってしまいます。
しかし、職業訓練校に編入して優秀な成績を上げ、怠学補導教官の助手として事務室で働くように勧められたため、ジョンは自分に対して自信を持つようになります。また、この頃のジョンはスタンリーの気を惹くため、スタンリーのお気に入りの民主党立候補議員の応援を行うようになります。
こうしたジョンの努力もあり一時的に両者の関係は好転しかけましたが、兵役検査でジョンに病歴があったことから4F判定(兵役免除)になると、スタンリーはジョンを再び罵倒し始めます。
その後もジョンに対するスタンリーの暴言は止みませんでしたが、それでもジョンは父親を心から愛しており、いつか父親に認めてもらおうと一生懸命に働き続けました。
出世と転落
ある日、20歳になったジョンはスタンリーから車を借りようとしますが、断られ暴言を吐かれます。
それを聞いたジョンは激怒し「もうアンタにはウンザリだ!!!」と言い残して家を出て、ラスベガスへ向かいました。その後、葬儀屋のアルバイトで死体に防腐処置を施すための血抜きを手伝って生計を立てました。
3カ月後に母親のマリオンが迎えに来ると仕方なくシカゴに戻りますが、自立を志してビジネスの専門学校に入学。卒業後は大手靴販売店のセールスマンとして就職し、入社してすぐに抜群の営業成績を上げたことで、若くしてエリアマネージャーに抜擢されます。
その後、アメリカ合衆国青年会議所の有力会員となると、会議所の貯蓄販売券の販売でも優秀な成績を残し、その2年後には州全体で3番目の活動実績を挙げ、第一部長に就任します。
1964年にはマリリンという女性と結婚しアイオワ州に移住。妻の父親が所有していたケンタッキーフライドチキンの3店舗のマネージャーも兼任するようになり、敏腕ビジネスマンとして活躍。
人望も厚かったジョンは、青年会議所の次期会長選出が確実視されるほどでした。
ビジネスマンとして多忙を極める中、ボランティア活動にも精力的に動き回るジョンを見て、いつしか周囲は「眠らない男ゲイシー」と畏敬の念をこめて呼ぶようになります。
これほどジョンが働いたのは、父・スタンリーに「自分を認めてもらいたい」という彼なりの愛情があったからでした。
こうしてビジネスマンとして順風満帆の生活を送るジョンでしたが、ここでトラブルを起こします。
ジョンは同じ青年議会所の会員の息子である15歳の少年・ドナルド・ヴァリューズを「ポルノ映画を観よう」と誘い、地下室で性的関係を持ったのです。
その後もジョンはヴァリューズと性的関係を続けたため、次期会頭選挙を目前に控えたころで事実が発覚。ジョンは反自然性交の容疑で逮捕され、未成年への性的虐待の罪で服役することになります。
その間にマリリンが離婚を提訴して結婚生活も終わりを迎え、順風満帆の生活から全てが一転してしまったのです。
実刑判決を受けて収監されたジョンでしたが、収監中わずか7か月で高校卒業の資格を取り、さらに大学の通信教育で心理学などの単位も取得。
さらに模範囚としての実績と態度を買われたジョンは、懲役10年の判決にもかかわらず、わずか16ヶ月で出所したのです。
その後、ジョンは故郷のイリノイ州に戻りますが、服役中に父親のスタンリーが肝硬変で死去していたため、彼は目標を失い、茫然自失となりました。
殺人ピエロ〜killer clown
出所から半年後、ジョン・ゲイシーは再び少年に対する暴行容疑で再逮捕されますが、原告の少年が裁判に姿を見せなかったことでこの時は不起訴となりました。しかし、これ以降ジョンはパーティーで知り合った少年を漁る様になります。
ある日、ジョンは自分の「漁った」少年とベッドを共にしました。
早朝に目を覚ますと、その少年がナイフを持って立っていました。それを見たジョンは恐怖からパニックを起こし、格闘の末に刺し殺してしまったのです。
実は少年はジョンのためにサンドイッチを調理しており、たまたまナイフを持っていただけだったのです。
ジョンは混乱しながらも死体を床下に隠しますが、同時に殺人の快感も覚えてしまったのか、これ以降、殺人願望が芽生え始めます。
その後、ジョンは軽建築業で身を起こすことを決意すると、貯金に励みながら事業計画を練り上げ、シカゴのノーウッド・パークの近くに一軒家を購入。そこを拠点に、満を持して自分の建築ビジネスを興します。
「PDMコントラクターズ」と名付けた自分の会社を軌道に乗せると、高校時代からの知人だった・キャロルという女性と再婚し、彼女の連れ子二人と共に暮らし、地域でも尊敬される存在となっていきます。
一方で、休日は道化師「ポゴ」に扮し、福祉施設を訪れるなどして子供たちの人気者となりました。しかし裏では次の殺害に見合った少年がいないか物色していたのです。
気に入った少年を見つけると「ポルノ映画を隠れて観よう」と自宅の地下室に連れ込み、手錠を掛けて動きを封じ、凶器で脅しながら殺害。
殺害方法の多くは、少年達の首にロザリオのネックレスを掛けた後、ボールペンを入れて、ゆっくりねじって絞殺するという方法でした。
殺害後は遺体を床下に埋葬。腐敗の進行を早めるために石灰や塩酸を散布し、証拠の隠滅を図りました。
しかし、さすがに腐敗臭までを抑えること出来ず、異常を感じた妻のキャロルはジョンと即離婚します。その後、家族に気を遣うことがなくなったジョンの凶行は激しさを増し、犠牲者は一気に増えることになるのです。
逮捕
ジョン・ゲイシーが最初の殺人を犯してから8年後のこと。ジョンの経営する会社にアルバイトの面接に行った15歳の少年・ロバート・ピーストが行方不明となり、警察はロバートの行方を追っていました。
警察はジョンが犯人ではないかと推測しますが、ジョンは地元の民主党議員と深い関係であることを笠に着て、警察の捜査をのらりくらりと誤魔化し、時には「人権侵害だ!」と民事訴訟を起こしたため、警察も迂闊に手出し出来ませんでした。
しかし、ジョンを監視していた刑事が「ジョンが覚醒剤を所持している」との情報をキャッチしました。その後、ガソリンスタンドで覚醒剤の取引を行っているジョンを発見すると、すぐさま現行犯として逮捕し、強制家宅捜査に乗り出します。
ジョン・ゲイシー宅の強制捜査が行われた結果、29人の死体が石灰で覆われた状態で家の床下から発見されました。ジョンの供述により他の4人の死体は床下にスペースがなかったので、近くのデス・プレーンズ川に捨てたことが明らかになりました。
最も若かった犠牲者は9歳で、20歳の元海兵隊員の青年が一番年齢の高い犠牲者でした。
床下に埋められた死体の腐臭は凄まじく、現場の警官たちは激しい吐き気とめまいに襲われました。
死刑
ジョンは精神鑑定のため、犯罪精神科病棟に移送されました。
この時、ジョンは「自分は多重人格者で4人の人格があり、覚えていない」と証言し、無実を主張しました。(※この3カ月後に、10の多重人格者である殺人犯・ビリー・ミリガンがニュースで取り上げられる)
判決は有罪でしたが、ジョンは数百万ドルに及ぶ莫大な資産を利用して、20回以上の上訴と模範的な服役生活により刑を免れ続けます。
そんな中、犯罪者マニアの18歳の少年がジョンの電話番号を突き止め、電話でのやりとりを始めました。
ジョンは少年に「人殺しをした本当の理由を教えてあげる」と刑務所に招待し、面会することになりました。しかし衝動に駆られたジョンは少年を殺害しようと計画。
模範囚としての信用を利用して、仕切りがない看守抜きでの面会を取りつけ、少年と2人きりでの面会を行いました。そして少年を監視カメラの死角に誘い出して殺害しようとしましたが、間一髪で看守が通りかかって未遂に終わりました。
この犯行が決定的となり、再審請求は取り下げられて死刑が確定したのです。
ジョン・ゲイシーが希望した最後の食事は「ケンタッキーフライドチキン、フライドポテト、エビフライ、イチゴ、ダイエットコーク」など、若き日の成功を象徴するものばかりでした。
死刑執行直前の彼の最後の言葉は
Kiss my ass(くたばりやがれ)
だったと伝えられています。
現在も、ジョン・ゲイシーによって殺められた身元不明の被害者の調査は継続しています。
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