大正&昭和

【大正の殺人色魔】 吹上佐太郎 〜27人の少女を暴行し6人殺害 【関東連続少女殺人事件】

大正12年(1923)6月、群馬県沼田町(現・沼田市)の桑畑で絞殺された少女の死体が発見された。被害者には暴行された形跡があり、その後も同じ手口の事件が関東で続いた。

警察の懸命な捜査の後、1人の男が逮捕された。

男の名前は吹上佐太郎(ふきあげ さたろう)といい、関東で一連の事件を起こす前からすでに京都で少女を暴行・殺害していた人物であった。

ここでは27人の少女を暴行し、うち6人を殺害した関東連続少女殺人事件の犯人、吹上佐太郎について詳しく追求していきたい。

苛酷な子供時代

吹上佐太郎

画像 : 吹上 佐太郎 public domain

明治22年(1889)2月、吹上佐太郎は京都西陣の機織り工の長男として生まれた。

父親は気が小さいうえに働かず、酒ばかり飲んでいた。母親が家を取り仕切っていたが生活は苦しく、佐太郎や弟妹達はいつもひもじい思いをしていた。佐太郎は子守りに追われ小学校にも行けなかったという。

佐太郎は9歳の頃にはすでに異性が気になり、寝ている妹に「いたずら」をすることもあった。
また、西陣の機屋に奉公に出され、そこでは奴隷のように働かされたという。

11歳の頃は機屋で丁稚をしていた。そこでは17~18歳の女中が2人おり、夜は同じ夜具で一緒に寝ていたのだが、1人の色好みの女中からほぼ毎晩性的な暴行を受けていたという。佐太郎はそのような環境の中でみだらなことを覚えたのだった。

12歳の頃には、次の職場で、主人から預かった金を芝居見物につかったことがばれ、懲治場(刑事責任のない子供を懲らしめるための留置所)に入れられた。そこを出た後にまた別の機屋で働くも、懲治場にいたことを知られて居づらくなったため飛び出した。他の職場にいっても長続きせず、盗みを働くようになり何度も留置所に入った。

窃盗常習犯と知り合い、大阪に行ったこともあったが、再び京都に戻り盗みを続けているうちに捕まり、1年間懲治場に入れられた。
しかし、佐太郎にとっては獄中にいる方が食事や睡眠などがとれ、さらに学問もできるため、奉公生活などをしていた時よりもはるかに楽しかったという。

その後も各地をぶらぶらしていたが、西陣の家が気になり戻ってみると、一家は生活苦から四国で「乞食行脚」をしていることを知った。

佐太郎も四国に渡ったが、手持ちの金が足りなくなったため京都に戻った。そこでまた盗みをして捕まり2ヶ月後に出所した。その時佐太郎の両親は、京都市中で乞食をしており、佐太郎は盗みで稼いで家族と暮らすようになったが、その生活に慣れることができなかった。

そして明治38年(1905)頃、再び放浪生活を始めたのだった。

初めての暴行殺人

佐太郎は盗みを繰り返し、気がつくと母親よりも年上の女性の「ツバメ」になっていた。一方で、街の中などで見かけた少女に暴行をするという生活を送っていた。

吹上佐太郎

画像 : 竜安寺 庭園(鏡容池)wiki c

そして明治39年(1906)9月、京都の龍安寺付近の山中に11歳の少女を連れ込み暴行した際、少女が出血したのを見て「傷を持つ娘を連れて戻り、この子が家に帰れば、すぐに自分がしたことだと分かってしまう」と思い、少女を絞殺したのだった。

佐太郎は犯行後、高飛びしようとしたが金が無くまもなく逮捕された。それから佐太郎は15年余りを福岡県三池刑務所で過ごし、その在監中に看守に殴りかかるなどの問題行動を繰り返した。

大正11年(1922)3月、佐太郎は出所すると、売春宿の見張り番や田舎まわりの劇団員などをしたが長く続かなかった。そして仕事を求めながら東北地方まで移動していった後、東京に向かった。

大正12年(1923)4月、佐太郎は神田佐久間町の米店で働いていたが、その米店の次女(10)を倉庫に連れ込んで暴行しようとしてケガをさせたため、父親に通報された。しかし、正式な告訴がされなかったため、佐太郎は聴取を受けただけで済んだのだった。

その後、佐太郎は米店から逃げ関東近県を転々とし、連続暴行殺人事件を起こし始めたのだった。

関東連続少女暴行殺人事件

大正12年(1923)6月、佐太郎は群馬県沼田町(現・沼田市)で、父親に弁当を届けにいこうとしていた少女(12)を桑畑で暴行し殺害した。

それから2ヶ月後の8月、長野県小県郡県村(現・東御市)の田中駅の近くで少女(14)を誘い、桑畑で暴行し首を絞めて殺害した。

その後も8月下旬に群馬県小野上村(現・渋川市)で11歳の少女を、9月下旬には千葉県金谷村(現・富津市)で16歳の少女を暴行し殺害した。

翌大正13年(1924)3月には埼玉県中川村(現・秩父市)で16歳の少女を、4月には群馬県東村(現・伊勢崎市)で16歳の少女を同様に殺害した。また、これらの他にも、若い女性を暴行していたとされる。

7月になり、群馬県で警視庁をはじめ関東の各府県の捜査係主任会議が開かれ、そこで昨年から各府県で起きている連続暴行殺人事件が話題に上った。
被害者が少女ばかりであることや犯行の手口が同じということから、同一人物の犯行であるとされた。

4月に東村で起きた事件では、現場から写真が発見されていた。その写真とは佐太郎と芸者が一緒に写っているもので、警察はその写真を焼き増しして警視庁に送った。さらにその写真をもとに、関東一帯の府県で7月28、29日にかけて一斉大捜査をした。

すると写真を見た外神田署の刑事が、昨年、米屋の少女を暴行しようとしたとして聴取した佐太郎の顔を覚えており、すぐに気がついたのだった。

警察は、佐太郎が志村の飯場に住み込んでいることを聞き込んで、昼食から戻ってきたところを逮捕した。

イメージ

身勝手な暴行殺人犯

佐太郎は警視庁での取り調べで

「今までに少女を90人余り強姦しているが、殺すか殺さないかの分かれ目は、相手が自分の言うままになって楽しませてくれるかどうかである。体を提供してくれれば『生き別れ』でそうでなければ『死に別れ』である」

と述べ、不敵な態度であったという。

佐太郎は群馬、長野、茨城、埼玉、神奈川、栃木、東京、千葉で暴行・暴行殺人事件を起こしたとして、身柄の引き取りは3件の暴行殺人事件を抱える群馬県警が担当することになった。8月9日、佐太郎は前橋署に到着し、取り調べを受けた。

佐太郎は警察が用意したビールを飲み、あぐらをかきながら陽気に話し、とても凶悪犯とは思えない様子であったという。

また佐太郎は「自分は逃げも隠れもせず立派に死にたい」とも話していたという。

その後、佐太郎は少女27人を暴行し、その内6人を絞殺したとして起訴された。予審判事は、群馬県の沼田町と小野上村の2件と長野県の1件の計3件についてだけ公判に付すことにした。

これに対して佐太郎は「物足りん。あの6件の殺人罪を全部公判に付されてこそ安心して死に就けるのに」と不満をあらわにした。

罪を全否認

大正14年(1925)5月、佐太郎は前橋地方裁判所で死刑判決を受けたが、これを不服として控訴し、東京控訴院で第二審が開かれることになった。

すると佐太郎は、昨年3月上旬に茨城県の養蚕村(現・筑西市)で女中(16)が暴行され絞殺された事件も自分がやったと自白したのだった。その事件はすでに被告人がいたが、佐太郎の自白と事件の証拠との一致が多く、この事件も佐太郎の犯行であることがほぼ裏付けられた。

しかし、8月の公判で佐太郎は

「自分は前橋の調べで、6件の犯罪があるといっても3件しか取り上げてくれないので、その真実を言うことをやめた。自白は私が得意の想像虚偽で、尋問に合わせたものだ」

と茨城の事件を今度は全面否認し、

「犯行時刻には、職探しに行っていたのであって、自白は新聞とうわさで作り上げた」

と述べた。

裁判長達は驚き、法廷は混乱したため審理は一旦中止になった。さらに佐太郎は茨城の事件だけでなく、今までの犯罪全てを否認したのだった。

佐太郎には誇大妄想的な発言をしたり、時には正義感が非常に強い態度をみせたりするなどの癖があり、周囲の人々を困惑させた。それだけでなく佐太郎は、自身を変態性欲者として、自身の陰部をひき出して医者に鑑定をさせてほしいといったが、そのような鑑定は許可されなかった。

その後、茨城の事件での被告人が無罪になり、茨城の事件も佐太郎の犯行であるとされたにも関わらず、佐太郎は控訴審でも全ての否認を続けた。

佐太郎が遺したもの

審理が進む中で、裁判長が膨大な証拠書類の読み上げをしていた途中で、佐太郎は「もう結構です。裁判長さん、では本当のことを申し上げましょうか」とい、それまで全て否認していた起訴事実を認めたのだった。

大正15年(1926)4月の公判で検事は死刑を求刑し、佐太郎は裁判長から何か言いたいことはと求められると、「自分にこのような暴行殺人事件をさせたのは自分が育ってきた環境のせいだ」という旨を述べた。

また、佐太郎は獄中で詳細な自叙伝を書いており、「社会に自身の経歴を知らしめてこのような過ちが繰り返されないようにし、そしてその原稿料を被害者の供養に当てたい」と述べたという。

その後の控訴審判決は死刑になり、佐太郎は自叙伝を完成させるために上告をしたが、7月に上告は棄却された。
そして9月28日、市谷刑務所で佐太郎の死刑が執行された。

佐太郎は刑の執行前、立ち合いの検事に「やはり多くの霊に対して私は死ななければならぬ」と語り、最後まで落ち着いていたという。

佐太郎の自叙伝「娑婆」は、佐太郎の死刑の直前に世に出たものの、風俗をみだすとしてすぐに発禁になったのだった。

子供を狙った性犯罪は現代でも頻発している。佐太郎の事件は過去だけのものではなく、現代でも考えさせられる要素があると思える。

参考文献 :
加太こうじ「明治・大正犯罪史」現代史出版会 1980年
中野並助「犯罪の通路」中央公論社 1986年
森長英三郎「史談裁判」日本評論社 1966年

 

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草の実堂編集部

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2023年 12月 10日 11:12am

    鬼滅の沼鬼はコレがモデルになっているのか
    顔も結構似てる

    2
    0
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