昭和23年(1948)1月、東京都新宿区の助産院・寿産院(ことぶきさんいん)において、何人もの幼い子どもが殺害され、子どもの養育料の横領、配給品の横流しが行われていたことが発覚した。
主犯は寿産院の助産婦・石川ミユキであり、横領によって巨額の利益を手に入れていた。
事件の背景には、戦争の影響により生まれた社会問題があったという。
今回は、この寿産院事件(ことぶきさんいんじけん)について追求する。
乳児の遺体発見
昭和23年(1948)1月12日夜、警視庁は度重なる凶悪事件に対応するため臨時警戒を実施していた。
ある早稲田署の巡査が管内弁天町で警戒にあたっていたところ、自転車の荷台に木箱を積んで運んでいる男がいたため職質した。
男は葬儀屋で、木箱の中にはシャツとおむつに包まれた乳児の遺体が1体入っていた。巡査が男を問いただすと「新宿区の助産院・寿産院から頼まれて運んでいるところだ」と答えた。しかもすでに同日、他に4体の乳児の遺体を運び出したと話し、これまでに30体の火葬を頼まれたという。
遺体は明日火葬する予定で、男は3通の埋葬許可証を持っていた。
報告を聞いた早稲田警察署署長・井出勇は、1日に5体もの乳児の遺体を同じ産院から運び出したことや、すでに30体以上もの遺体を火葬したことはただ事ではないと判断し、調査することを決めた。
井出署長は、まず乳児の死因を調べるために葬儀屋に捜査係を派遣した。
15日午前、国立第一病院にて遺体の司法解剖を行った結果、3体は肺炎と栄養失調、2体は凍死であると診断された。また、遺体の胃の中に食物の入った形跡はなかったという。
このことから乳児殺害の疑いで寿産院の石川ミユキ(52)、夫・猛(55)及び葬儀屋・長崎龍太郎(54)が逮捕された。
当時、産院には7人の乳児がいたが全員痩せて衰弱しており、すでに死んでいる子どももいたという。
寿産院
事件の主犯格・石川ミユキは宮崎県で生まれた。東京帝大(現・東大)病院付属産婆講習所を卒業し、23歳頃に猛と結婚した。
日本橋や牛込で開業し、昭和22年(1947)には新宿区議に立候補するも落選している。また地元の産婆会会長も務めていたという。
夫・猛は茨城県生まれで、農学校を中退した後、18歳で兵役志願し憲兵軍曹まで務めた。1919年~1926年まで警視庁の巡査をした後、ミユキの事業を手伝い始めた。
昭和19年(1944)頃に石川夫妻は、主に婚姻関係にない男女から生まれて育てることが困難な子どもを預かって養育し、子どもがほしいと希望する人に斡旋する寿産院を開業した。
当時は法律により人工妊娠中絶が厳しく制限されており、主に子どもを預けにくる女性は戦争未亡人、ダンサー、娼婦などで、他には暴行を受けて望まぬ妊娠をした女性も少なくなかった。夫妻は新聞に広告を掲載し、5千円~8千円(現代価格約5万円~約8万円)の養育料を受け取って子どもを引き取り、さらに子どもをもらいにきた義親からは300円~500円(約3千円~約5千円)を受け取り売っていた。
子どもの顔立ちの良さで金額を変え、まるで商品のような扱いだったという。夫妻はこれら養育料の横領、粉ミルクや砂糖などの配給品をヤミ市に横流しするなどして、逮捕までに90万円(約900万円)以上の利益を手に入れていたとされる。また葬儀屋の長崎は遺体1体につき500円で処理していた。
寿産院については以前から「乳児を入浴させていない、1日中泣き叫ぶ声がする」などと付近の人々に噂されていた。入院した産婦の間でも、子どもに対する扱いなどを見て『鬼産婆』と噂し合い、産院を逃げ出した人もいたという。
明るみに出た犯行
寿産院は開業してから200余人の乳児を預かったが、その内、最低でも80余人の乳児が死亡したとされる。預けられた乳児の中には貴族に関係する子もいたという。
預かり子台帳、埋葬許可証、死亡診断書の数が食い違うなどしたため、事件の真相究明には支障をきたした。
1948年1月17日、石川夫妻は「自分たちが与えていた養育量では子どもが死に至ることを知っていた。母のある子どもが死亡した時は、母のない子どもが死亡したことにして配給ものを取った」と殺意を認めた。
検事は夫妻を殺人罪、葬儀屋・長崎を殺人幇助で送検した。また産院で働いていた女性は「子どもに与える食事はミユキ先生が厳格に量を決めていた。その量は普通の子どもの半分だった」と証言した。
18日には寿産院の産婆助手の女と死亡診断書を書いていた医師も逮捕された。
ミユキは新聞記者団の問いに対し「犯した罪のつぐないのためには、死刑にされても恨みません」「あの食事量では子どもたちが死んでしまうことは分かっていたが、後の補給に目当てのないため、量を減らした」などと答えた。
さらには「毎日のように子どもが死んでいくため、だんだん慣れて何とも思わなくなった」と話したという。
26日、東京地検は石川夫妻と助手の女の3人を殺人罪で起訴した。
葬儀屋の長崎は正式な埋葬許可証の交付を受けていたため、証拠不十分として釈放された。
世間の反響
事件の反響は大きく、人々の中には「鬼夫婦に飯など食わすな」と憤慨する人などがいた。一方で死んだ乳児の大半が『不義の子』『日陰の子』であったことから「殺されても仕方がなかった」という意見もあった。
また当時の産院は『良い商売』とされていた。昭和22年(1947)1月の産院数は567軒だったが12月には768軒に増えており、この商売のうまみを物語っている。
今回の事件で、東京都は都内の私設産院を徹底的に調査した。
すると新宿区・淀橋産院でも乳児の埋葬手続きに不審な点があり、死亡した乳児を解剖すると栄養不良により死亡していたことが分かった。そしてそれまでに60余人の死亡届が出ていたという。
文京区・駒込産院でも戸籍のある乳児が亡くなった際に、戸籍のない乳児が死んだことにして届け出て、配給を受けるという不正行為をしていたことが分かった。さらに他にも同様の産院があることが発覚していった。
これを受けて厚生省は、乳児院の増設、民生委員の権限強化などの対策をとり、捨て子を受け入れる取り組みを行った。東京都も助産婦の育児禁止、都立乳児院の設置を決定したのだった。さらに7月には優生保護法が公布され、9月に施行された。
翌昭和24年(1949)には、経済的理由による堕胎が認められるようになった。
判決とその後
昭和23年(1948)9月、東京地裁はミユキに懲役15年、夫・猛には同7年、助手には同3年を求刑した。そして10月の判決で、ミユキは懲役8年、猛には同4年が言い渡された。起訴事実にある27人の殺人のうち5人についてのみ有罪とされ、死亡診断書を書いていた医師は禁錮4月になったという。
助手の女性は、しばしばミユキに忠告していたことが判明したことから無罪になった。石川夫妻はこれを不服として控訴し、昭和27年(1952)4月の控訴審においてミユキは懲役4年、猛は同2年の判決を言い渡されたのだった。
事件から21年後の昭和44年(1969)、ミユキを取材した記事が週刊新潮に掲載された。
彼女は
「自分で子どもの首を絞めるとか手を下したことは絶対にしていない。できるだけ食事も与えたし医師にも診せた。それでも子どもは死んだ。捨て子同然に預けられた子どもであって、産院をのぞきに来た親なんて1人もいなかった。親と私とどっちがひどいのか」
などと話した。
ミユキは出所後、石けん・クリーム・魚の行商から商売をやり直した後、都内で不動産業を営んでいた。
かつての担当弁護士の「今は億の金を作ったんじゃないですか」という証言も紹介されている。
その後、石川ミユキは昭和62年(1987)5月に死去したとされる。
政府は戦時中のいわゆる『産めよ殖やせよ』政策として、日陰の子が闇に葬られることを防ぐために、寿産院のような産院のことを黙認していた。戦後は利用者が増加したのにもかかわらず、政府は何も保護をしなかったため、産院の経営が苦しくなったことも事件の原因になったのだった。
しかるべき対処を怠った国家の責任も重いだろう。
参考 : 警視庁史昭和中編(上) 警視庁史編さん委員会 1978年
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