2023年は日本各地の人の居住地域で、例年よりも多くの熊の出没が確認されている。
熊に関する問題は動物愛護や自然保護の観点から様々な議論を生むが、実際に熊が出没する地域に住む人々にとっては悠長に様子を見ている余裕はないだろう。
1915年、野生の熊の恐ろしさを物語る事件が北海道苫前郡で起きた。人間の味を覚えてしまったヒグマが、小さな村で次々と人々に襲い掛かったのだ。
今回は死亡者7人(胎児含めて8名)という日本史上最悪の被害を出した熊害(ゆうがい)事件、「三毛別羆事件」について解説していこう。
ヒグマの出現
三毛別羆事件は、北海道苫前郡苫前村三毛別(現在の苫前町三渓)の六線沢で発生したエゾヒグマによる熊害事件だ。ヒグマの犠牲者となったのは妊婦を含む女性と胎児含む子供合わせて8人にのぼる。
初めにヒグマによる被害が起きたのは1915年11月初旬のことだった。
北海道の小さな開拓集落・六線沢の池田富蔵宅の軒下に吊るしておいたトウモロコシが食い荒らされていたのである。
その後11月20日の未明にもヒグマは現れたが、その時は特に被害はなかった。しかし富蔵はヒグマの存在を身近に感じ、何か対策せねばならないと不安を募らせた。
11月30日には、熊狩りのプロであるマタギ2人に張り込みを頼み、現れたヒグマに傷を負わせたが捕らえることはできなかった。
惨劇の始まり
12月9日、六線沢の太田三郎宅で留守番をしていた三郎の内縁の妻・阿部マユと、三郎が知人から預かっていた6歳の蓮見幹雄がヒグマに襲われた。
三朗と三郎宅に寄宿していた長松要吉は作業のため出かけており、昼頃に帰宅した要吉が側頭部に親指大の穴が開いた血まみれの幹雄の遺体を発見した。
ヒグマはマユを引きずりながら土間を通って窓から外に出たらしく、窓枠にはマユの物らしき頭髪の束が絡みついていたという。
住民たちがヒグマの被害に気付いた時はもう夕暮れで、暗闇の中山に入ることはできないため、次の日になってから捜索隊が結成された。
12月10日、朝9時ごろに結成された捜索隊はヒグマと遭遇したが、銃の手入れができていなかったために発砲できたのは1丁だけだった。
ヒグマは銃声に驚いて逃走した。
男たちがヒグマがいた付近を確認すると、トドマツの木の根元でマユの衣服をまとったひざ下と頭部の一部が発見された。
この日の夜にマユと幹雄の通夜が行われたが、村人たちはヒグマを恐れて参列したのはわずか9名だった。
そして午後8時半ごろ、三郎宅に獲物を盗られたヒグマが襲来した。
棺桶は引っくり返されて遺体が散らばり、通夜の参加者たちは恐怖に怯え逃げ惑った。しかし参列者の1人が銃を持っていたため、発砲音に驚いたヒグマは逃げ出した。
騒ぎを聞きつけた近所の家から50人ほどが駆け付け、三郎宅を取り囲んだが、ヒグマは既に次の目標に向かっていた。
明景安太郎宅の被害
三郎宅から逃げ出したヒグマが狙ったのは、三郎宅から500mほど川を下った所の明景安太郎宅だった。
安太郎宅には安太郎の家族6人と、事件を通報するために遠方の役場や駐在所に行く役目を負った斉藤石五郎の妻と子供2人の3人、三郎宅の寄宿人である要吉1人の合計10人が在宅していた。
三郎宅襲撃から20分も経たない午後8時50分ごろ、安太郎宅の窓を突き破って侵入したヒグマは次々と人間を襲っていった。
安太郎の妻・ヤヨと、ヤヨに背負われていた1歳の梅吉はヒグマに咬まれ重傷を負うが、逃げる要吉にヒグマが気を取られて命は落とさなかった。ヤヨは助かったが、梅吉は後に死亡した。要吉は腰辺りを咬まれて重傷を負った。
ヒグマはさらに共に3歳の金蔵と春義に襲いかかって殺害し、ヒグマの攻撃で重傷を負った6歳の巌も後に死亡した。春義と巌は石五郎の息子だった。
野菜置き場で息をひそめていた妊娠中の石五郎の妻・タケはヒグマに引きずり出され、「腹破らんでくれ!」と腹の子の命乞いをしたがヒグマには通じず、上半身から食われて絶命した。
タケの腹は破られて胎児が引きずり出されていたが、ヒグマは胎児には手を出していなかった。しかし胎児はまもなく死亡した。
物音と悲鳴を聞いて駆け付けた村の衆が安太郎宅を取り囲んで空に向かって発砲すると、ヒグマは玄関から裏山の方へと逃げていった。
この夜の襲撃に危機感を高めた六線沢の住民約40人は、三毛別にあった三毛別分教場へと避難することになる。
ヒグマ討伐作戦
12月12日、殺されたタケの夫・石五郎の通報を受け、北海道庁警察部は管轄の分署署長に討伐隊結成を指示し、討伐隊本部が三毛別地区長・大川与三吉宅に置かれた。しかし、討伐隊は山に隠れたヒグマをすぐに発見することはできなかった。
ヒグマは自分の獲物に強く執着し、取り戻す習性を持っている。
その習性を利用してヒグマをおびき出すために、安太郎宅に残された遺体を餌に使う策が採用された。
読み通りヒグマは安太郎宅の近くまで出てきたが、警戒して中には入らず森へ帰ってしまった。その後も再び安太郎宅付近に現れたが、射殺することはできなかった。
12月13日、大日本帝国陸軍歩兵第28連隊の将兵30名がヒグマ討伐のために動員された。住民が避難を終えて無人となっていた六線沢の家8件にヒグマは侵入した。
討伐隊に参加していた後に「伝説のマタギ」と呼ばれる腕の立つ猟師・山本兵吉は、そのうちの1軒でヒグマを目撃したが、この時は射殺には至らなかった。
12月14日の朝、ヒグマの足跡と血痕が発見される。
ヒグマが負傷し動きが鈍っていると判断した討伐隊隊長は、討伐隊を足跡が続いている山の方角へ差し向けた。前日にヒグマを目撃しており、ヒグマの生態を熟知している山本兵吉は、討伐隊とは別に山に入った。
先にヒグマを発見したのはクマの狩猟に長けた山本だった。ヒグマに接近した山本は、木の陰に身を隠してライフル銃を発砲し、ヒグマの心臓付近に命中させた。
山本は即座に二弾目を装填し、心臓を撃たれてもまだ動こうとするヒグマの頭部を撃ち抜いた。
そしてようやくヒグマは絶命するに至ったのだ。
ヒグマ討伐後
三毛別羆事件で死亡したのは、阿部マユ・蓮見幹雄・明景金蔵・斉藤タケ・斉藤巌・斉藤春義・タケの胎児の7人、そして重傷を負った明景梅吉は後に死亡した。
三毛別のヒグマ討伐のために動員された人数は、官民合わせて延べ600名、アイヌ犬10頭以上、導入した銃は60丁にのぼった。
討伐されたヒグマは住民たちの手でそりを使って山から下された。ヒグマを運ぶ際中に天候が急変し、激しい吹雪がそりを引く住民たちを襲った。この猛吹雪を村民たちは「熊風」と呼び、後の世まで語り継いだ。
ヒグマの死骸を解剖したところ、胃の中からは被害者の肉や衣服などが見つかった。また熊の解剖を見に来た人々は、このヒグマが雨竜や旭川、天塩で女性3名を襲ったクマだと証言した。
実際にヒグマの胃からは、その女性たちが身に着けていたとされる衣服の切れ端も見つかっている。
その後、ヒグマの毛皮や頭蓋骨は人手に渡り、今は行方不明となっている。
ヒグマの骨は、住民が解体したヒグマを犠牲者の供養として食べた後に小川に捨てられ現在でも見つかっていないため、六線沢を襲ったヒグマの正確な大きさは分かっていないが、伝承では口先から踵までがおよそ2.7mもあったという。
事件をきっかけにクママタギを目指した 大川春義
ヒグマを倒した山本兵吉は、三毛別の事件後2~3年三毛別に住んでいた。
ヒグマ討伐隊の本部が置かれた大川家の息子・大川春義は当時7歳だったが、集落を襲ったヒグマを憎み、父の与三吉に薦められたこともあって、犠牲者1人につきヒグマ10頭、計70頭を仕留めることを目標にクママタギを目指し、少年期には山本やアイヌの猟師にヒグマの生態や狩猟の知識を教わった。
20歳で猟銃の使用許可を得て、晴れて春義は猟師となった。しかし初めの10年はヒグマを前にすると恐怖が先立ち、銃を撃つことすらできなかった。
狩猟を始めて12年、32歳の時に初めてヒグマの親子を仕留めることに成功し、翌年には4頭、その翌年には3頭のヒグマを仕留めることができた。春義はヒグマへの復讐を誓っていたが、それと同時にヒグマを山の神と崇め、死んだヒグマの慰霊も欠かさなかった。
第二次世界大戦が始まると兵士として戦地に赴いたが、戦後は熊狩りを再開し、1969年60歳の年に50頭討伐を達成、間もなく念願の70頭を達成した。
しかし、北海道内でのヒグマの被害は続いており、春義は新たに100頭討伐の目標を立てる。
そして68歳になる年、ついに100頭を達成し、春義は猟師を引退した。
その後は春義主導で、三毛別羆事件の犠牲者たちのために、地元の三渓神社に熊害慰霊碑を建立した。
1985年12月9日、町立三渓小学校では三毛別羆事件の70回忌法要が行われた。
春義も講演する予定であったが、話し始めた途端に壇上で倒れ、その日のうちに亡くなった。当日は朝食をしっかり食べ、健康状態にも特に問題はなかったという。
春義がヒグマ100頭討伐を成し遂げ、そのきっかけとなった事件からちょうど70年後の同月同日に急逝してしまったのは、なんとも因縁めいた話である。
参考文献
木村盛武『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』
吉村昭『羆嵐』
戸川幸夫(著)/矢口高雄(イラスト)『野性伝説 羆風/飴色角と三本指』
北海道苫前町公式HP 苫前町郷土資料館
熊擁護の人たちは動物園でもいいから、一度ヒグマを間近で見たほうがいい。絶望的な体格差で“可哀想“なんて単純な発想は消えるよ