日本人であれば、「津山三十人殺し」という言葉を一度はどこかで目にしたことがあるだろう。
津山三十人殺しとは、1938年に岡山県の農村で起きた大量殺人事件の通称だ。
正式には「津山事件」と呼ばれるこの事件の加害者は、都井睦雄(とい むつお)という21歳の青年たった1人だった。都井は2時間足らずの間に28名の村人を即死させ、5名に重軽傷を負わせ、そして負傷した者のうち2名はその日のうちに死亡した。
その残虐性と犠牲者の多さで世間に衝撃を与え、『八つ墓村』や『丑三つの村』など数多くのミステリー小説やホラー小説のモデルとなった津山事件だが、睦雄の犯行時の精神状態は正常で、学生時代は成績優秀で礼儀正しい勤勉な少年だったという。
人より病弱ではあったがいわゆる優等生だったはずの睦雄は、なぜ一晩のうちに30名もの人間を惨殺する凶悪な殺人鬼になってしまったのだろうか。
今回は、津山三十人殺しの犯人である都井睦雄の生涯について解説していこう。
幼少期から学生時代までの生い立ち
都井睦雄(とい むつお)は、今から約100年前の1917年3月5日に、岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現在の津山市加茂町倉見)に生まれた。しかし2歳の時に父を、3歳の時に母を相次いで肺結核によって亡くし、3歳上の姉と共に祖母に引き取られて加茂の中心地である塔中(たっちゅう)に住むようになる。
そして睦雄が6歳の頃、都井家は祖母の故郷であり、加茂町の中でも山際の貝尾集落に居を移した。両親はいなかったものの都井家の資産と所得に畑作を合わせれば、一家は比較的余裕のある生活を送ることができていた。
成長した睦雄は尋常高等小学校に進学する。学校での成績は全科目において10段階評価中8以上と優秀で、教師からも「勤勉で親切であり従順、正直で約束をきちんと守る礼儀正しい生徒だ」と評価されていた。
だが、睦雄は学校を卒業直後に胸膜炎を患ってしまい、医師から農作業の禁止を言い渡され、病状が良くなるまでの間はしばらく何もすることがない生活を送った。
体調はすぐに回復したため実業補習学校に入学するが、慕っていた姉が嫁に行った頃から学業に身が入らなくなり、家に引きこもるようになっていった。
集落の女性たちと肉体関係を持つ
睦雄が引きこもりになっていた当時、貝尾集落にはまだ夜這いの慣習が残っていたといわれる。
夜這いとは、よその家に行ってその家の妻や娘と肉体関係を持つ行為だ。夜這いはかつて、慣習として日本の多くの農村で行われていた。
山深い場所にある農村には、遊郭や花街などもちろんあるわけがないし、そんな場所に気軽に行くこともできない。夜這いの慣習には村民の性欲発散、子孫を残し村を存続させていくための性教育、または結婚相手探しの意味もあり、村ごとに夜這いする時のルールも決められていたという。
睦雄もまた、集落の家々に夜這いをしに行き、複数の女性と性的な関係を持っていた。夜這いと聞くと男性優位な社会で無理矢理行われるイメージを持ちがちだが、実際は女性にも拒否する権利があり、女性が受け入れなければ関係を持つことはできなかった。
つまり、睦雄は村の女性たちと合意の上で、深い関係を結んでいたことになる。
事件当時の貝尾集落を知る人物が2008年に受けたインタビューでは、貝尾集落に夜這いの慣習があったという話は否定していた。しかし睦雄が集落の女性と肉体関係を持っていたことは、睦雄自身が遺書に記している。
結核と判定され、徴兵検査に落ちる
学校には行かず畑作にも身が入らず、近所の子供と遊んだり、時折集落の停電を直したりしながら過ごしていた睦雄だが、1937年の5月に徴兵検査を受けることになる。
しかし、結核持ちという理由で事実上の不合格となり、それが原因で関係を持っていた女性たちから手のひらを反すように拒絶されるようになった。
睦雄は女性たちに関係を拒まれるだけではなく、集落の住民のほとんどから疎まれるようになり、集落内には睦雄の悪評が広まっていった。挙句の果てには婚約寸前まで関係を深めていた女性も、睦雄に冷たく接するようになり他家に嫁いでしまった。
集落の住民たちの態度に不満と怒りを募らせた睦雄は、その年のうちに狩猟免許を取得して2連発散弾銃を購入するに至る。
翌年の1938年にはその散弾銃を下取りに出して、猛獣用散弾銃ブローニング・オート5を手に入れた。
睦雄は日がな山で射撃練習を行い、毎晩散弾銃を手にしたまま集落内を徘徊するようになり、住民に不安を与えるようになる。
睦雄はこの時期から犯行の計画を立てていたとされ、自宅や土地を担保にして借金もしており、散弾銃の他に日本刀、短刀、匕首なども集めていたが、祖母の勘違いが原因でそれらの武器一式が警察に押収され、銃の所持許可も抹消されてしまう。
しかし睦雄はあきらめなかった。知人を通じて再び猟銃や弾薬を買い、刀剣愛好家から日本刀を譲り受け、武器を集め直した。
そして睦雄は自分の元を去って他家に嫁いでいった女性が実家に帰省するという話を耳にして、1938年5月21日に計画を実行に移すことを決意する。
津山三十人殺しの始まり
睦雄は計画の準備を抜かりなく行った。犯行の数日前には姉や知人に向けて長文の遺書を書き、逃げ出した集落の住民が救援を求めて駆け込むであろう加茂町駐在所までの移動時間も、自ら自転車で走り確認していた。
1938年5月20日の午後5時ごろ、睦雄は村の電柱によじ登って集落に通じる送電線を切断し、貝尾集落一帯を停電させる。しかしまだ電気の供給が不安定な時代だったため停電をいぶかしむ住民はおらず、原因の究明や通報などはされなかった。
そして夜が更けて住民たちが寝静まった5月21日の午前1時40分ごろ、睦雄は動き出した。
学ランに軍用ゲートルと地下足袋を身につけ、頭に巻き付けたはちまきには小型の懐中電灯を左右1本ずつ結び付け、首には手提げランプを下げた。
腰には日本刀と匕首をぶら下げ、より殺傷力を高めるために改造した散弾銃を持ち、まず始めに眠っていた祖母の首を斧ではねた睦雄は、次々と集落の家に押し入り住民たちを日本刀や散弾銃で惨殺していった。
怒りが暴走するままに殺戮を繰り返したと思われる睦雄だが、犯行の内容は計画的であり、一番の標的であった女性を逃がすなど想定外の出来事があったものの、睦雄は冷静に殺害を繰り返していったといわれる。
睦雄は自分を悪く言った人物や、恨みがあった家から嫁をもらった家の住民は容赦なく殺したが、普段自分の悪口を言わなかった者は見逃していた。
犯行は約1時間半に及び、隣の集落の家で顔見知りの子供から鉛筆と紙を譲り受けた睦雄は、貝尾から3km以上離れた荒坂峠の山頂で追加の遺書を書き、凶器の散弾銃で自らの心臓を撃ち抜き絶命した。
睦雄が祖母を最初に殺したのは、自分が大罪を犯し自殺した後の祖母の不幸を考えてのことだった。
事件後の影響
睦雄が犯した犯罪の影響は多大で、世間に大きな衝撃を与えた。そして多くの住民が殺害された貝尾集落では人手が足りなくなり、農村としての機能が成り立たなくなるほどだった。
さらに睦雄に見逃された家は「睦雄の計画を事前に知っていながら隠していたのではないか?」と疑われて、村八分のような扱いを受けたとされている。
加害者である睦雄が自害し、被害者のほとんどが即死していたため、警察が聴取できたのは生存者の証言だけだった。しかし、生存者のそのほとんどが家族を睦雄に殺されていたため、第三者的な立場からの証言を得ることは不可能に近かった。
睦雄は犯行後に書いた遺書にて、姉に対して「この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい」と記したが、姉の懇願により睦雄の亡骸は倉見にある祖母が眠る墓の隣に葬られ、墓石代わりに小さな川石が置かれた
廃屋となっていた睦雄が生まれた倉見の家は、2015年に取り壊され、今は更地となっている。
たった23世帯111人の小さく閉ざされた集落で暮らし、両親を失った原因である結核に自分も罹患して、病気によって同情されるどころか差別を受け、未来に希望を持てないいわゆる弱者であった青年が犯した罪はあまりにも重すぎた。
事件発生から80年以上の時が経ち、当時を物語るあらゆるものが風化していく中で、人間の業が深く絡み合う津山三十人殺しの話は今も心に重苦しくのしかかってくる。
参考文献 :
事件研究所 (著)『津山事件の真実』
松本 清張 (著)『ミステリーの系譜』
石川清 (著)『津山三十人殺し 七十六年目の真実: 空前絶後の惨劇と抹殺された記録』
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