東日本大震災(平成23・2011年3月11日)の復興支援以来、にわかに脚光を浴びるようになった自衛隊。
かつては「憲法違反」などという批判にさらされて来ましたが、最近ではテロ対策などでもその必要性が認識され、憲法に明記すべきか否かの議論も活発に行われているようです。
さて、そんな日本の平和と独立を守る自衛隊ですが、任務の多様化・多忙化によって年々志願者が減少し、募集が厳しくなっている、と広報官の方が言っていました。
そこで、という訳でもないのですが、今回は筆者が海上自衛官として一任期を務めた経験を、差し障りのない範囲で紹介。
「こんなヤツでも務まったなら、自分もいっちょう志願してみようかな」
「別に入隊はしないけど、それなりにみんな苦労しているんだな」
など、興味を持って頂けましたら幸いです。
【おことわり】
一、当時の経験に基づいており、現在とは制度など変わっているところも少なからずあるため、あくまで参考程度に願います。
一、また「本当に行ってきたんだよ!」と言う証拠?のため、自撮り写真が多数あって鬱陶しいですが、どうかご了承願います。
志願の動機と入隊試験
平成18年(2006年)10月9日、北朝鮮が初めての核実験を強行した時、私は新聞配達のアルバイトをしていました。
「これは、戦争になるぞ!」
休刊日にもかかわらず、店からの非常招集(ニュースを聞いたのはその翌日)で号外を配達しながら、筆者は独り考えこみます。
「戦争になったら多分死ぬ。逃げ惑って殺されるか、あるいは一矢でも報いるか……よし!」
どうせ死ぬなら、戦って死のう……そうと決まれば夜が明けるなり(10:00過ぎでした)、近所の募集相談員さんに相談。さっそく紹介して頂き、その翌日には管轄の募集相談所へ駆け込んだのでした。
今にして思えばとんだ笑い話、広報官も内心(しめしめ、カモネギじゃわい)と思っていたでしょうが、当の本人は大真面目。
正直なところ、体力にはあまり自信がなかったものの、広報官の「入隊してみて、どうしてもダメなら辞めればいい。でも、後になって『あの時、入っておけばよかった』という後悔は取り返しがつかない」という言葉で決心が固まります。
(※本当は、定期的に訓練に通って予備自衛官を目指す予備自衛官補の志願を考えていました)
東京都の練馬駐屯地で入隊試験を受けて、そこで海上自衛隊を選びました。海上を選んだ理由は「旧軍からの伝統を唯一受け継いでいる」という偏くt……もとい美学に憧れたからです。
「北朝鮮と一戦交えて核兵器による脅威を払拭し、拉致被害者を奪還するお手伝いがしたいです!」
「何なら韓国に奪われた竹島や、ロシアに奪われた北方領土の奪還も、ぜひお手伝いしたいです!」
……今にして思えば以下同文、面接官も内心苦笑していたのでしょうが、当の本人は以下同文。めでたく合格した筆者は平成19年(2007年)3月、晴れて海上自衛官となったのでした。
(※現在は自衛官候補生として、最初の教育期間中は自衛官ではない扱いだそうです)
自衛官生活最大の難関?教育隊で学ぶべき「生き延びる力」
さて、身の回りをキレイに片づけ、カバン一つでやって来たのは横須賀教育隊(第345期練習員課程)。陸上自衛隊の武山駐屯地と隣接しているため、「武山」と言った方がわかりやすいかも知れません。
手続きや訓練内容などについては防衛省の公式サイトを見ていただくとして、ここでは「こういう準備や予備知識があると便利」というポイントをまとめておこうと思います。
【あると便利なスキル】
アイロンがけ(効率的なシワの伸ばし方、折り目のつけ方など)
裁縫(制服に階級章を縫いつける機会は、けっこう多いです)
ベッドメイク(厳しく指導されるため、動画もあるので予習しよう)
靴磨き(動画を観ながら、お父さんの革靴で練習しよう)
持久走(タイムはとにかく、5~10kmくらいをギブアップせず走れる程度)
水泳(クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バラフライで各50m泳げる程度)
協調性(仲間は隊内生活の生命線。孤独なヤツから脱落=退職していく傾向あり)
【持っておくと便利なツール】
着隊時に支給されたり、隊内に転がっていたりもしますが、いかんせんチャチいので、隊内生活を向上させるため、自腹を切ってでも用意するのがおすすめです。
腕時計(時間に厳しい世界です。スマホの持ち歩きは原則禁止)
霧吹き(アイロンがけやベッドメイクに、絶対必要です)
裁縫道具(特に針は、自分の手指にフィットするものを厳選しましょう)
靴磨き道具(更にライターを加えると、裏ワザに使えます)
マスク(コロナ禍に関係なく、とかく埃っぽいので気管支をやられます)
常備薬(衛生隊へ貰いに行くのは非常に手間が面倒です)
筆記具・文房具一式(支給もされますが、使い慣れたものの方が便利です)
……などなど。個人スペースは非常に限られているので、私物は最小限を心がけましょう。
ちなみに、衣服関係は教育分隊(学校で言うクラス)単位で買いそろえるため、下着類を除いて用意する必要はありません。隊内で私服を着る機会はないと思って大丈夫です(※邪魔&脱柵に使われても困るので、処分or自宅へ送り返すよう指導されます)。
以上、これだけではありませんが、とりあえずこれらの「ヒント」を元に、4ヶ月(自衛官候補生は3ヶ月)を生き延びて下さい。
ここさえ乗り切れれば、後の自衛官生活はどうにかできます(少なくとも、その力が養われます)。
海の男だ艦隊勤務…おすすめは4分隊
さて、どうにか教育隊を修業(卒業)すると、予め指定された部隊に配属されますが、筆者の場合は大湊総監部(青森県むつ市)を母港とする「川クラス」の護衛艦に、1分隊として乗り組みました。
この分隊ってのは教育隊のそれとは異なり部署を表し、護衛艦だと以下の通りになります。
1分隊(砲雷科)……射撃や魚雷など
2分隊(船務科)……航海や船舶の運用など
3分隊(機関科)……エンジンや設備など
4分隊(経補科)……経理・補給・衛生など
5分隊(航空科)……艦載機の搭乗・整備など
筆者は「教育分隊の班長と同じ」という理由で大湊総監部の魚雷員に割り振られましたが、正直なところ「4分隊のが良かったな……」と思いました。
【4分隊がおすすめな理由】
1、娑婆へ帰った時、就職に有利(と思われる)
2、ワッチ(当直)の時間が規則的(例外あり)
3、上官次第では、昇任が早い(傾向があった)
4、全体的に、穏やかな人が多い(傾向があった)
「俺は一生、自衛官をまっとうするんだ!」と思っていても、自衛官の定年は、海曹が階級によって53~55歳、幹部でも60歳で退官です(幕僚長クラスは除く)。
そこから先、いくら「魚雷や大砲なら任せておけ!」とうそぶいたところで、そのスキルが就職を有利にしてくれる可能性は限りなくゼロです。
2分隊とか5分隊も選択肢が狭まりますし、3分隊も、歳とってからだとどうでしょう。
続いてワッチというのはWatchの訛りで、要するに見張りのこと。1~2分隊は昼夜を問わず周辺海域の見張りに立直(りっちょく)しており、詳しいシフトは割愛しますが、不規則なリズムで身体を壊しがちです。
3分隊も独自の当直制をとっており、そっちは判りませんが、4分隊は基本的に調理を担当(経理要員や衛生要員も手伝います)、数十~数百人分の食事を作るのは大変ではありますが、時間は概ね規則的なので、比較的慣れやすいでしょう。
ちなみに、ウチの艦に5分隊は乗り組んでいなかった(そもそもヘリを搭載していないので配置がない)ので判りませんが、他分隊の手伝いに回っていたのかも知れません。
ここで皆さんに伝えるべきことは「教育隊で教わったことはあくまでも参考に過ぎず、今は目の前の上官に従え」これに尽きます。
船酔いは、そのうち慣れます。筆者も最初の1ヶ月くらいは大いに苦しんだものですが、お守り代わりに酔い止めを飲んだところ、不思議なもので次の日からは飲まなくても平気になりました。
※教官の中には「酔い止め薬になんか頼るな」という方もいましたが、船酔いに苦しむのは他でもないあなたです。酔い止め薬に限らず、使えるものは何でも使い倒して、どうか任務をまっとうしてください。
バカにできない陸上勤務
さて、駆けずり這いずり何とか辞めずに2等海士⇒1等海士(9ヶ月後)⇒海士長(1年後)と昇任していく中で、地上部隊へ転属されました。
「え?海上自衛官のくせに陸上勤務?」
そう思う方もいるでしょう(実際に言い放った方もいました)が、艦艇や航空機を運用するためには、その乗り組み人員に数倍する陸上からのバックアップが必要不可欠です。
かつて旧軍では「♪輜重輸卒(しちょうゆそつ。補給・輸送部隊)が兵隊ならば、蝶々(ちょうちょ)蜻蛉(とんぼ)も鳥の内♪」などと兵站(へいたん。ロジスティクス)を軽視した結果、大東亜戦争に敗れ去った教訓を忘れてはなりません。
華々しい艦艇の活躍は、還る母港があってこそ……自衛官同士でも後方支援をバカにする方がいますが、どうか皆さんにはご理解いただけると、とても嬉しく思います。
それこそ甲板掃除や当直、ゴミ処理一つとったって、誰かがそれをやらねばならないなら、仲間のために率先するのが、国民の負託に応える自衛官の理想と心得、精進して参りました。
その任務は多岐にわたるのですが、筆者の体験した限りで言えば基地警備や対テロ警戒、儀仗隊(ぎじょうたい。式典の警護)に始まり、広報活動や外来宿舎の管理、文書交換(郵便物の処理)や除雪隊(雪国ならでは)など、まさに「縁の下の力持ち」。
艦艇勤務に比べると乗組手当や航海手当がつかないため俸給は安くなりますが、その一方で生活環境がよいため、どちらを選ぶかと言ったところです。
ちなみに、当時の俸給(手取り)は艦艇勤務で約20万、陸上勤務で約14万でした。言うまでもなく、職種(潜水艦、航空機など)や勤務地域(都心、僻地、寒冷地)などによって手当が変わってくるため、あくまでもご参考までに。
そして帽振れ、任期満了
かくして3年の月日が流れ、いよいよ任期満了(陸上は2年、海上と航空は3年)。
永遠に続くとも思われた海上自衛官生活も終わりが見えてくると、娑婆に帰るための準備が始まります。
中には「学資が貯まったから」と進学する者もいましたが、筆者も含めて多くは就職活動に勤しむのですが、大湊から都心へ出るのはなかなか一苦労で、自衛隊が主催する就職説明会を除き、面接に要する諸経費(交通費、宿泊費など)はすべて自腹。
2回ほど出向いた(大湊⇔新宿を往復した)ものの結果は芳しからず、結局「退官してから探す!」ことになりました。今まで生き延びられたのだから、どこへ行ってもお天道様はついて回らぁ、の心意気です。
「帽振れー!」
蛍の光をBGMに、脱いだ帽子を頭上で3度回す旧海軍伝統の別れの儀式をすませると、3年前の入隊時と同じく、カバン1つでJR大湊駅から電車に飛び乗りました。
「あーあ、北方領土も竹島も拉致被害者も奪還できなかったなぁ……」
今にして思えば以下略ですが、それでも日本の平和と独立を守る一員として、国防の末席を汚す栄誉に与れたことは、人生における大きな誇りであり、こんなんでも少しはお国の役に立てたものと信じたいところです。
その後、予備自衛官となって今日に至るのですが、そのエピソードはまたの機会に。
終わりに
♪地連(ちれん)のオヤジにだまされて 入隊したよ海上自衛隊(じえいたい)
聞くのと見るでは大違い 駆けずれ這いずれ 日本(くに)のため
故郷に錦を夢に見て 今日も今日とて前支え(まえささえ)……♪♪ラッパの音で起こされて 朝から晩まで怒鳴られる
泣いてる暇などありゃしない 日々の忙(せわ)しさに目が回る
イジメもワッチも乗り越えて 滴る汗涙(ひかり)輝かせ……♪筆者拙作「地連のオヤジにだまされて」
※軍艦マーチの替え歌。
以上、海上自衛官として務めた一任期3年間をごくざっくりと駆け足で紹介して来ましたが、とりあえず「自衛隊は厳しいの?」という疑問には、よくこう答えています。
「娑婆と同じくらいには」
20代の頃に比べれば少しは視野も広がり、あれこれ経験してみると、どこに行っても結局は人間関係に尽きるんだと思いました(訓練における体力面の心配は、あまりしなくて大丈夫です)。
自衛隊だからイジメがあるんじゃなくて、イジメをする嫌なヤツが自衛隊にいるだけであり、それは民間企業でもまったく変わらない筈です。
どんな仕事にも嫌なところ、厳しく感じるところがある一方で、その仕事が社会に存在するだけの価値ややりがいが必ずあります。
それを見出せればどんな仕事や職場でも前向きに取り組めるし、自分の人生を豊かなものにできます(もちろん、合う合わないはあるので、あまり無理は禁物です)。
厳しい規律の中でこそ自由への欲求が高まり、その原動力が今の自分を活き活きとさせてくれる……退官してから10年以上が経ちましたが、何だかんだと言ってよい経験だったと思っており、少しでも興味があるなら、まずは志願してみることを心よりおすすめします。
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