
画像:右前足で竹をつかんで食べるジャイアントパンダ(アドベンチャーワールドにて)2021年5月撮影 wiki c 松岡明芳
和歌山県白浜町のアドベンチャーワールドで飼育されているジャイアントパンダ(以下、パンダ)4頭が、2025年6月28日に中国へ返還されることが正式に決まった。
日本国内でパンダを飼育している動物園は、2025年5月時点ではアドベンチャーワールドと、東京都恩賜上野動物園の2ヶ所のみだ。
しかし、上野動物園で飼育されている双子のパンダ「シャオシャオ」「レイレイ」も、2026年2月に中国に返還される予定であるという。
このままなら、来年にも日本からはパンダがいなくなってしまうだろう。
特に和歌山県では、パンダという動物園の象徴的な存在がいなくなることで、地域経済への影響が懸念されている。
パンダは人間との関わりの中で、実に数奇な運命をたどってきた動物だ。
今でこそ珍獣としてもてはやされ、外交手段としても利用されているパンダだが、かつて行われた乱獲や竹林開発による棲息地の減少によって、絶滅の危機にまで追い込まれた動物でもある。
いまや1頭で、年間に数億円規模の経済効果を生み出すほどの人気と注目を集める存在となったパンダ。
今回は、そんなパンダと人間社会の関係と歴史について、掘り下げていこう。
パンダが初来日したのは飛鳥時代?

画像:月岡芳年 『大日本名将鑑 阿部比羅夫』 public domain
遡れば、日本でパンダが話題となったのは、1972年に「カンカン」「ランラン」が来日した時からだ。
この2頭は日中国交正常化を記念して、中国から日本に対して今のような貸与という形ではなく、贈呈されたパンダだった。
しかし、カンカン・ランランの来日で昭和のパンダブームが起きる前にも、中国から日本にパンダが贈られていたという説がある。
それは、1972年から約1300年前の685年、中国においての王朝は唐、日本は飛鳥時代のことであった。
諸説あるものの、当時唐の権力を掌握し始めた頃の武則天(則天武后、685年当時の名は武照)が、天武天皇に対して2頭の生きた「白熊」と、毛皮を贈ったという記録が『日本書紀』に残されているという。

画像 : 武則天(則天武后)public domain
現在の中国語ではパンダを「大熊猫」と表記するが、かつては「白熊」や「羆(ヒグマ)」と表記された時期があった。
ただしこの話には、斉明天皇(在位655~661年)に仕えていた将軍、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が、異民族・粛慎(みしはせ)を討伐した折に、生きた羆2頭と毛皮70枚を献上したという記録が誤解されたものという説もある。
ストレスに弱く、新鮮な竹しか食べず、現代の技術でも飼育が難しいパンダが、7世紀に生きたまま大陸から日本へ無事に輸送されたというのは、たしかに現実的とは言えないだろう。
パンダが西洋人に発見されたのは1869年

画像:アルマン・ダヴィド神父(1884年) public domain
パンダは古くから中国の人々にその存在を認識されていたが、西洋人で初めてパンダを発見したのは、フランス人宣教師で博物学者でもあるアルマン・ダヴィドという人物だった。
ダヴィドは、キリスト教の司祭として北京に派遣され、1869年3月11日に現在の四川省宝興県にあたる地域を訪れた際、現地の猟師が持っていたパンダの毛皮を見て、西洋の博物学ではまだ記録されていない未知の動物であると判断した。
後日、ダヴィドはフランスの国立自然史博物館にパンダの毛皮と骨などを送り、これがきっかけとなってパンダの存在が世界に知られるようになった。
パンダの特徴的な毛色や骨格は、またたく間に欧米の人々の注目の的になり、まもなく乱獲が始まった。
もともとパンダは、古代に他の生物との生存競争に敗れて追いやられ、竹林が茂る山奥に棲息するようになった動物だ。繊維が多く消化が困難かつ、栄養価の低い竹や笹を好んで食べる動物は少ない。
そのため、自然界においてパンダの成獣に明確な天敵はほとんどおらず、省エネな生活様式に加え、あまり戦う必要がなかったためか、クマ科の動物にしてはおとなしく、動作も緩やかである。
さらに、緑一面の山奥の中で、大きな体と白黒の体色は視認しやすくもある。
こうしたパンダの愛くるしい特徴が、当時は大金を生み出す撃ちやすい標的とされる要因になってしまったのだ。
その後、人間に乱獲され続けたパンダは、繁殖力の低さも相まって、発見からわずか30年ほどで絶滅の危機に陥ってしまった。
1936年にパンダの幼獣が生きたまま捕獲される

画像:子パンダのスーリンをアメリカに連れて帰るルース・ハークネス public domain
1936年には、アメリカの探検家であるルース・ハークネスが、欧米人で初めてパンダを生きたまま捕獲することに成功した。
ルースはもともとは服飾デザイナーであったが、1934年から探検家だった夫と共に、パンダを見つけるために中国を訪れていた。
しかし、上海滞在中の1936年に夫は病気で亡くなってしまい、ルースは夫の仕事を継いで開始した探検にて、生後2カ月ほどのパンダの捕獲に成功したという。
捕獲された子パンダは、ルースに同行した中国系アメリカ人探検家クエンティン・ヤンの義理の姉の名から「スーリン」と名付けられた。
スーリンは上海からアメリカに運ばれる際、檻や鎖にはつながれなかった。ルースは自分自身の腕でスーリンを赤子のように抱きかかえ、人工ミルクを与えながらアメリカに連れ帰ったという。
アメリカに連れ帰られたスーリンはたちまち話題となり、最終的にはシカゴのブルックフィールド動物園に預けられ、3ヶ月間で30万人以上の入場者を集める人気者となり、多大なる経済効果をもたらした。
この頃から、パンダの毛皮や骨格目的の乱獲は落ち着いたが、今度はパンダの幼獣を生け捕りにしようとするハンターが増え始めてしまう。
しかし捕らえられたパンダの幼獣の多くが、輸送地に到着する前に死んでしまった。運よく輸送地に生きたままたどり着けたとしても、すぐに命を落としてしまうパンダがほとんどだった。
ルースは、スーリン捕獲の翌年にも2回目の遠征に出て「メイメイ」というパンダを捕獲してアメリカに連れ帰っている。
しかし、生涯最後となった3回目の遠征では、パンダを捕獲したものの連れ帰らず、そのままもとの山に帰したという。
パンダが保護対象となり「パンダ外交」が始まる

画像:蕾蕾と暁暁(レイレイとシャオシャオ、2022年6月) wiki c 江戸村のとくぞう
中国固有の生物であるパンダが生け捕りにされ、欧米諸国に次々と持ち出されていることを危惧して、1939年終盤に中国政府はようやくパンダの保護に乗り出した。
当初は、生きたパンダを中国政府の許可なしに国外に持ち出すことが処罰の対象となったが、パンダの密猟が後を絶たなかったため、1980年代にはパンダの生死にかかわらず密猟が禁止されるようになり、過去には銃殺刑に処された密猟者もいた。
外国におけるパンダの価値に気付いた中国政府が、初めてパンダを外交に利用したのは1941年のことである。
中華民国初代総統・蒋介石の妻である宋美齢が、日中戦争の最中に懐柔策としてアメリカにパンダを贈呈した。

画像 : 宋 美齢(そう びれい)1943年 public domain
そのパンダはニューヨークの動物園で人気を博し、同年8月には石油の対日全面禁輸が実行され、アメリカ、イギリス、中国、オランダによるABCD包囲網が完成した。
戦後もパンダ外交は積極的に行われ、1957年から1983年にかけては24頭のパンダが、ソ連や朝鮮、アメリカ、イギリスなど9ヶ国に友好の証として贈呈されている。
そして1972年になって初めて、日中国交正常化の記念として、日本にも「カンカン」と「ランラン」が贈呈された。
その後1984年からは、ロサンゼルス市にパンダ2頭が貸与されたことを皮切りに、パンダは贈呈ではなく貸与という形で各国に送られるようになる。
中国から一定期間貸し出されたパンダには返還義務があるのはもちろんのこと、貸出期間中に生まれたパンダも所有権は中国にあるため、原則生後24ヶ月までに中国に返還するという条件が定められた。
その条件に則って、和歌山アドベンチャーワールドの母パンダ「ラウヒン」と、日本で生まれた「ユイヒン」「サイヒン」「フウヒン」の4頭は、日中ジャイアントパンダ保護協同プロジェクトの契約満了により、上野動物園生まれの「レイレイ」「シャオシャオ」は貸与契約満了により、中国へ返還されることが決定したのだ。
日本にゼロパンダ時代が訪れる?

画像:パンダが竹を食べる様子(アドベンチャーワールド) wiki c 松岡明芳
高齢の母パンダと日本生まれのパンダたちの中国返還は、もうすでに決まっていることであり、このまま新しいパンダの来日が決まらなければ、日本に54年ぶりにパンダが1頭もいない時代が訪れる。
現在は茨城県日立市の「かみね動物園」にパンダを誘致する計画が動いており、2025年4月には中国陝西省と覚書を締結したというニュースも公表されたが、今の時点ではまだどうなるかはわからない。
中国から新たに貸し出されるパンダは、あくまでも各国との友好関係の証であり、2012年の尖閣諸島問題が起きて以降、習近平体制になってからはパンダが1頭も来日していないのだ。
加えてパンダを健全に飼育するためには、年間100万ドルの貸与料に加えて、膨大な飼育費も負担しなければならない。
今の日本に、新たなパンダを受け入れる余地はあるのだろうか。
それにしてもパンダは本当に不思議な動物だ。それはただ愛らしさと珍しさで、多くの人を虜にしているからだけではない。
ほんの150年ほど前までは、中国の山奥に棲む神秘的な獣と考えられていたのに、ひょんなことから人間に見つかり、狩り尽くされそうになった後、今では世界情勢に絡むような重大な役目を背負わされている。
人間に見つかる時期があと100年遅ければ、パンダの扱いは今とは異なっていたのかもしれない。しかし見つかってしまったその時から、人間の利己的な欲望と策略、そして多くの注目と期待に晒され続けている動物なのである。
参考 :
家永真幸 (著)『中国パンダ外交史』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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