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夏の甲子園、高校野球応援ブラスバンドの歴史

夏の甲子園、高校野球応援ブラスバンドの歴史

この夏100回記念大会を迎える夏の高校野球全国大会

かつて甲子園を沸かせたレジェンド球児たちが始球式を務めるそうで、楽しみにされている方も多いでしょう。

しかし甲子園で戦うのはグラウンドの選手ばかりではありません。観戦スタンドでも熱い応援合戦が繰り広げられるのです。

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第1回全国中等学校優勝野球大会

夏の高校野球全国大会の始まりは、1915年(大正4年)8月18日から8月23日まで、第1回全国中等学校優勝野球大会として豊中球場で開かれた大会です。これが今日につながる高校野球の記念すべき第一歩で、主催者は現在と同じ「朝日新聞社」です。

当時の中等学校(中等教育学校)は、前期中等教育(現中学校教育に当たる)と後期中等教育(現高等学校教育に当たる)を、一貫して行う教育機関として設立されました。

大会開催が発表されたのが同年7月1日と、本大会まで1ヶ月と17日しかなく準備不足の中、参加校わずか10校で開かれた大会でした。開催期間も5日間で、観客数は5千人から1万人。まぁ現在と比べても意味の無いことです。

ところがこんな中でもちゃんと始球式が行われていたのです。羽織袴に身を固めた朝日新聞社社長村山龍平氏が投じた第1球は、見事ノーバウンドでキャッチャーミットに収まり、ストライクが宣告されました。

審判長には荒木寅三郎京都帝国大学総長を駆り出し、準備不足の割には妙なところで力が入っていました。

数千人の観客とは言え当然熱い応援もされたでしょうが、そこにブラスバンドは加わっていたのでしょうか?

始まりは京都二中(京都府立京都第二中学校)

京都二中(現京都府立鳥羽高等学校)は、記念すべき第1回大会で優勝を飾った名門校です。現在でも京都府下有数の、スポーツの盛んな学校として知られています。

そして高校野球にブラスバンドを持ち込んだのも、京都二中ではないかと思われるのです。この学校は開校当初から、初代校長中山再次郎氏の指導により、学業と同等にスポーツ・音楽を重視する教育方針を取って来ました。

氏の「情緒を養うための音楽教育は必須である」との持論のもと、1900年(明治33年)の開校時より、音楽を正課に取り入れています。1911年(明治44年)には、吹奏楽部の前身である楽隊部が創設されました。

で、楽隊部と野球応援の係わりですが、以前京都二中で教師をなさっていた方が在職中に「我が校が第1回中等学校野球大会で優勝した時、楽隊部もその場に居て演奏した」との話を聞かれたそうです。

この時楽隊部が応援に加わっていたかどうかは定かではありませんが、少なくとも豊中球場で演奏したことは間違いないようです。

応援に参加したのはいつ?

なんと第1回大会から、生徒により構成された楽団が参加していたのですね。では応援に加わったのはいつからでしょう?

どうも1952年(昭和27年)第34回全国高等学校野球選手権大会の、日大三高の吹奏楽部、ここが最初じゃないのかとの説に行き当たりました。

その年の8月16日、当時同校の吹奏楽部は夏の合宿で、長野県野尻湖畔に滞在中でした。そこへ鎌田彦一理事長からの電報が届きます。甲子園で野球部が1勝上げたので、吹奏楽部として応援に来て貰えないかと言うのです。理事長からの呼び出しとあって、吹奏楽部の一行30人と顧問の若林先生は、その日の夕方には上野行きの夜行列車に飛び乗ります。

翌17日、今度は大阪行きの夜行列車に楽器を積み込み一路甲子園へ、日大三高の試合は次の日18日午前9時の開始です。当日朝、無事甲子園スタンド一塁側に陣取った吹奏楽部は、大いに気勢を上げて応援したとか。

当時としては珍しい女性の先生の指揮で高校生バンドが応援したので、何人ものカメラマンが写真を撮影し、同日の朝日新聞夕刊でも取り上げられました。

次に記録に残っているのは1964(昭和39)年夏の神奈川大会で、神奈川県立高校と京浜女子大横浜高の吹奏楽部が合同演奏を行ったとあります。地方予選で合同演奏が行われたのですから、おそらくこの頃には甲子園では、日大三高に続く形で吹奏楽部による応援が定着して行ったのでしょう。

応援の現場では

時は移って現代、母校はめでたく地方予選を勝ち抜き甲子園出場決定、吹奏楽部にも応援要請が届きます。当日大事な楽器を抱え長時間バスに揺られて甲子園到着、さてそれから?

実は試合開始2時間前には、甲子園南側の浜甲子園駐車場に着いていなければならないのです。ここで係員に楽器運搬用車輌であることを申請し、積み下ろし場所への通行許可証を受け取ります。

指定場所で楽器を降ろすわけですが、スタンドへの楽器ケース持ち込みは禁止されているのです。試合終了と同時に次の出場校の応援団と入れ替わるため、即退場しなければなりません。楽器を分解したり、ケースにしまったりしている時間は無いのです。球場スタッフに追い立てられるように、剥き出しの楽器を抱えて退場します。

話は戻って入場時、前の試合の5回終了頃には、アルプススタンド入り口付近に集合します。7回表になればスタンド入場、試合終了まで外野側の席で待機します。延長戦に入ったりすると延々待たされます。

試合終了次第「ブラスバンド席」と書かれた椅子に移動・着席、音出し・チューニングなど演奏準備を行います。演奏が許されるのは自校の攻撃時のみです。

入場・退場

無事着席し試合も佳境に入った5回裏、グラウンド整備が始まります。何かと評判の高い「阪神園芸」さん、乾ききってスパイクで荒れたグラウンドをならし、水を撒きます。甲子園の広いグラウンド、ホース捌きにも職人芸が要求されるのです。

7回に入ると早くも球場スタッフから退場時の説明があります。追い立てられる気分ですが、何千人もの応援団が短時間で入れ替わらなければならないのです。でも日本人ってこう言いうのは、多分世界一スムーズに行えるでしょう。

試合が終了すれば、勝っても負けてもすぐバスに乗り込み甲子園を出発します。お土産の限定グッズを買うのも大急ぎ、試合の余韻に浸っている時間もありません。その頃には次の出場校の応援団が着席し、準備万端母校の入場を待っています。

いやぁ、聞いてみないと知らないことって多いですね。

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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