東京の玄関口であり、2016年度の平均乗車人数は60万人を越える巨大ターミナル、「東京駅」。
2012年に復元工事が終わり、建築当時の姿を取り戻した。太平洋戦争におけるアメリカ軍の空襲によって、焼夷弾が直撃。駅舎を火災が見舞う。これにより、コンクリート部分とレンガ部分はほぼ残ったが、内装は壊滅的な被害を受けた。
戦後に修復工事は行われたが、三階部分は手付かずのままだったので、今回の復元は、ようやく、といった感じである。
だが、歴史のある駅だけに不思議に思えるところも多い。今回は、そうした観点から東京駅の物語を見ていきたい。
なぜ、東京駅は日本初の駅とならなかったのか?
【※ライトアップされた夜の丸の内駅舎】
日本初の鉄道が新橋~横浜間で開通したことは有名な話だが、なぜ東京駅ではなかったのだろうか。
東京駅なら皇居にも近く、東海道の起点となる日本橋にも近い。何より、八重洲口の近くには江戸時代から続く京橋という繁華街があった。日本の象徴としては、これ以上ない立地である。その秘密は、時代の違いにあった。
明治5年5月7日(1872年6月12日)、品川~横浜間が仮開業し、同年9月12日には新橋~横浜までの全線が開通している。その頃の品川~東京駅(に当たる)区間はすでに街があり、人が住んでいた。そこに鉄道を通すのは楽な仕事ではない。事実、品川宿では住民の反対運動があったといい、どうにか伸ばせたのが新橋ということらしい。
海上を走る列車
【※浮世絵に描かれた開業当初の駅舎。当時は汐留エリアに新橋駅があった】
明治維新によって、富国強兵の道を歩み始めた新政府にとっては、鉄道網の構築は急がなければならない課題であった。当初は東京~神戸を結ぶルートが計画されていたが、予算の問題で実現できず、西郷隆盛を始めとして軍からは軍備増強のほうが先だという反対も出た。
そこで、モデルケースとして、全国に先駆けて開通したのが新橋~横浜間である。幸いにも新橋駅(現在の汐留エリア)周辺は土地が空いており、そこに停車場などを設けることもできたため、東京までは延伸する形となる。それでも、品川付近では住民の反対運動の他にも、薩摩藩邸があったため、その区間は堤を海の上に築いて約10kmを海上線路とした。これは、全29kmのうち3分の1の長さになる。
ちなみに、試運転の際には鉄道政策を推進した伊藤博文も乗車していた。
なぜ東京駅に私鉄は乗り入れないのか?
【※大正時代の絵葉書。この時代の東京市電は混雑が激しかった】
話を東京駅に戻そう。
もうひとつ不思議なのは、東京駅に直接乗り入れている私鉄がないことだ。世界一の乗降客数を誇る新宿駅には、小田急電鉄、京王電鉄が同じ駅の中にホームを設けているが、東京の場合は少し離れた地下に東京メトロの丸の内線の駅があるだけだ。
それも鉄道の歴史に由来していた。
日本で最初の鉄道を開業させたのは、東京馬車鉄道で、明治18年(1885年)には日本鉄道が山手線を開業させた。どちらも民間の企業である。一方で、山の手線の内側は、路面電車を運営する3社が路線を延ばしていたが、これを東京市が買い上げ、公営化される。そうなると地上は東京市の独壇場だ。そうして、山手線の内側では地下鉄だけが民間にも路線を設けることを許され、東京駅まで乗り入れる私鉄は誕生しなかったのである。
今でも、山手線の内側で地上を走る私鉄はなく、地下鉄に乗り入れしているのも同じ理由だった。
中央停車場
中央線の神田~御茶ノ水間にかつてあった「万世橋駅」を設計した「辰野金吾(たつのきんご)」と、建築設計事務所を共同経営していた「葛西萬司(かさいまんじ)」のふたりが設計した東京駅の駅舎は、鉄筋コンクリートにタイルを貼るという豪華な造りで、330mの長さと3階建てという大規模のものである。これだけの駅舎を建築できたのは、この場所が以前はただの野原だったからだ。
そもそも、政府は皇居を目の前にしたここに駅を建設する予定はなかったのだが、国鉄が新橋~神戸間を開通させたと同じ頃、日本鉄道(私鉄)が、上野~青森間の線路を建設していた。そのため、新橋~上野を高架で結ぶ計画が立てられ、その途中に「中央停車場」を設けることになる。これが後に東京駅となり、大正3年(1929年)に赤レンガを身にまとう豪奢な駅舎が完成した。そして、平成15年(2003年)には国の重要文化財に指定されている。
幻の空間
【※完成した東京駅の北ドーム】
東京駅には、我々一般人が知らない空間がいくつもある。
そのひとつが、皇族専用の待合室「松の間」である。その他にも貴賓室として「竹の間」もあるが、松の間だけはJRの職員でも内部をめったに見ることができない特別な空間だ。そこからは皇族に仕えるものと駅長しか通れない通路で外につながっているという。しかも、天皇皇后両陛下が竹の間を使うことがあっても、他国の国王や大統領など国賓クラスの人物でさえ、松の間には通さないという徹底ぶりだ。
そして、もうひとつが、レンガ造りの地下トンネル。これは、丸の内にある東京中央郵便局(現在のKITTE)と東京駅を結び、地下通路とホームとは8基のエレベーターで郵便物輸送を行っていた。しかも、約200mの線路を電気機関車が走っていたという。現在ではその一部が残るだけだが、一般には公開されていない。
最後に
今では「そこにあって当然」の東京駅だが、開業までは紆余曲折があった。だが、丸の内の駅舎は世界に誇れる建物である。今度、東京駅を訪れる機会があったらもっと観察したいと思っている。もしかしたら、新たな発見があるかもしれないから。
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