弥生&古墳時代

古墳時代と弥生時代は重複していた? 邪馬台国の有力地・纏向遺跡にある6基の古墳 【大王墓の謎に迫る】

エピローグ

画像:纏向遺跡 wiki c

画像:纏向遺跡 wiki c

日本史上において、古墳時代の前時代は弥生時代と定義され、その期間は、紀元前10世紀頃から紀元後3世紀中頃(西暦250年)とされています。

弥生時代も後期(西暦100~250年)になると、日本各地で有力者を葬ったと考えられる墳丘墓が造られます。しかし、前方後円墳などの古墳の出現は、一般には3世紀後半から4世紀前半(西暦300年前後)を待たなければならないというのが定説でした。

だが、こうした定説を覆す可能性をもった遺跡があります。それが、奈良県桜井市の纏向古墳群です。この古墳群は、弥生時代末期の2世紀後半から4世紀後半まで、約200年弱に亘り栄えたとされる纏向遺跡内に点在します。

古代史好きな方々にはいまさら言うまでもありませんが、纏向遺跡は邪馬台国の最有力地とみなされています。ですから、各古墳は、卑弥呼を始め邪馬台国と深い関係性が考えられるのです。

今回は、【大王墓の謎に迫る】シリーズの一環として、纏向古墳群にある6つの古墳について、その概要を紹介します。一つひとつの古墳については、あらためてその詳細・被葬者像などを含め、筆者の見解を述べていきたいと思います。

弥生から古墳時代への架け橋

画像:ホケノ山古墳現地案内板(写真:高野晃彰)

画像:ホケノ山古墳現地案内板(写真:高野晃彰)

纏向古墳群にある6基の古墳について簡単に言い表すと、弥生墳丘墓と古墳を繋ぐ存在ということになります。

6基の古墳は、「纏向石塚古墳」「纏向矢塚古墳」「ホケノ山古墳」「纏向勝山古墳」「東田大塚古墳」「箸墓古墳」で、各古墳の編年は、3世紀前半(200年)~3世紀後半(290年頃)にあたります。

どの古墳も、弥生墳丘墓から古墳への空白期と言える約半世紀を埋めるとともに、古墳の発祥的な意味をも持つ大変重要なものです。纏向遺跡内にある古墳は、さまざまな形のものが造られました。

今回取り上げる6基の古墳に関しては、その墳形は2通りに分類されます。

纏向型前方後円墳の3基の古墳

一つ目は、「纏向石塚古墳」「纏向矢塚古墳」「ホケノ山古墳」が該当する纏向型前方後円墳あるいは纏向型古墳と呼ばれるもの。これらの古墳は、後円部に対して、前方部の長さが、後円部の径の1/2程度と短く、高さも後円部よりも低い特徴を持ちます。その形からホタテ貝式古墳との別名があります。

先ずは、「纏向石塚古墳」。全長約93m。築造年代は、220年頃と考えられ、古墳として定義される墳墓としては現在のところ日本最古と推定されています。その被葬者は、古代都市・纏向を統治した王の墳墓と考えて問題ないでしょう。

画像:纏向石塚古墳(写真:高野晃彰)

画像:纏向石塚古墳(写真:高野晃彰)

「纏向矢塚古墳」は、全長約96m。築造年代は、230~290年頃と考えられ、後円部の頂には板石が散乱し、石室の破片ではないかと予想されます。

画像:纏向矢塚古墳(写真:高野晃彰)

画像:纏向矢塚古墳(写真:高野晃彰)

そして、纏向古墳群の他の古墳とは地理的に離れており、箸墓古墳に近い位置にある「ホケノ山古墳」。

全長は、約90m。築造年代は、250年頃と考えられます。

主要埋葬施設は、石囲木槨という大変珍しい構造を持つ、なにやら特殊性を感じさせる古墳です。大神神社では、被葬者を崇神天皇の皇女である豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に比定しています。

画像:ホケノ山古墳(写真:高野晃彰)

画像:ホケノ山古墳(写真:高野晃彰)

箸墓型前方後円墳の3基の古墳

そして二つ目が、箸墓型前方後円墳と呼ばれるもので、「纏向勝山古墳」「東田大塚古墳」「箸墓古墳」が挙げられます。

後円(円丘)部に、先端部を撥(ばち)型に開く長三角形の前方部が特徴です。

画像:纏向勝山古墳(写真:高野晃彰)

画像:纏向勝山古墳(写真:高野晃彰)

「纏向勝山古墳」は、全長約100m。築造年代は、250~270年頃と考えられます。

北側くびれ部から朱塗りの板材が出土し、墳丘内部に建造物が存在しており、その残片と考えられているのです。

建造物が何であったかは分かりませんが、何らかの祭祀のために建てられた施設と考えるのが妥当でしょう。

画像:東田大塚古墳(写真:高野晃彰)

画像:東田大塚古墳(写真:高野晃彰)

そして、全長約96m。築造年代が、250~290年頃とされる「東田大塚古墳」。

この古墳は年代的に幅がありますが、250年頃だとすると卑弥呼の墳墓の可能性もあり、その説を強く押す学者・研究者もいます。

画像:箸墓古墳 wiki c

画像:箸墓古墳 wiki c

最後に紹介するのは、全長約278mの大前方後円墳であり、最初の大王墓と目される「箸墓古墳」。

築造年代は、250~290年頃と幅広く、現在も論争中です。この古墳は、纏向古墳群の盟主墓と考えられますが、何といっても100m前後の全長から、突然300m近くの大規模古墳が出現したことです。

「箸墓古墳」は古くから卑弥呼の墓との説があり、著名な学者・研究者の中でも、この卑弥呼説を押す人が多数います。また、3世紀後半説から、卑弥呼の宗女・2代目女王の台与の墳墓とする説も根強く存在します。

いずれにせよ「箸墓古墳」は、邪馬台国のみならず、ヤマト国家誕生の謎も秘めているという点で、考古学上最も重要な古墳の一つと言っても過言ではありません。

まとめにかえて

今回その概要を紹介した6つの古墳は、大きな意味では前方後円墳に分類されます。

しかし、弥生墳丘墓が発展したものとする説もあり、纏向型墳丘墓と呼ばれ、古墳と認めない学者もいるのです。

6つの古墳で築造年がほぼ判明しているものとしては、纏向石塚古墳(220年頃)、ホケノ山古墳(250年頃)の2基ぐらいで、残りの4基は学者によりそれぞれ約四半世紀~半世紀の隔たりがあるのが現状。今後、纏向遺跡の発掘調査が進むと同時に、古墳群の編年が確定することに期待したいものです。

※参考文献
石野博信著 シリーズ「遺跡を学ぶ」051 邪馬台国の候補地・纏向遺跡 新泉社 2014年4月

 

高野晃彰

高野晃彰

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編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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