占いでよく言われるように宿命は決まっているが、運命は変えることができるという。
「命」を「運ぶ」と書いて「運命」というように、占いだけでは見抜けない未来もあるのだ。ここでは、圧倒的な努力と情熱で運命を打ち破った偉人を紹介したい。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
運命に絶望し、それでも不屈の精神で生き抜いたのが「楽聖・ベートーヴェン」である。
生家は宮廷歌手として成功した祖父・ルードヴィヒ・ヴァンを始めとした音楽一家であった。しかし、酒に溺れた父・ヨハンは落ちぶれ、祖父の稼ぎに頼る生活が続く。幼少時に祖父が他界すると、父は息子の才能に目をつけて厳しい音楽教育を始めたのである。しかし、16歳の時に母・マリアを、さらに22歳のときに父を失ったベートーヴェンは、若くして2人の弟たちと共に音楽の都「ウィーン」で生きていくことになった。
1798年、28歳になった彼は自身の難聴に気付く。それは作曲家にとっては致命的な出来事で、その苦悶する様子が甥と弟に宛てた手紙『ハイリゲンシュタットの遺書』に綴られている。
「やがて恢復するだろうとの希望に欺かれて、遂には病気の慢性であることを認めざるを得なくなった。みずから自身の生命を断つまでにはほんの少しのところであったが、私を引き留めたものは、ただ芸術である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように思えたのだ」
それまで音楽はあくまで貴族への商品だった。しかし、彼は「音楽は芸術だ」と初めて叫んだのである。そして、苦悩と絶望は名曲を生み出す原動力となり、最期を迎える直前には「諸君、喝采を。喜劇の終わりだ」とつぶやいたとされる。
伊能忠敬
【※伊能忠敬銅像(香取市佐原公園)】
まさしく「継続は努力なり」を体現した男である。
忠敬は17歳のときに下総(しもうさ)の佐原(現・千葉県)にあった酒造家・伊能三郎右衛門家に入婿した。事業家として大成し、天明の大飢饉の際には、名主として佐原からひとりも餓死者を出さなかったという。財を築いた忠敬は49歳で隠居、常人であればここで人生を終えるだろう。しかし、彼は違った。学問への熱意は消えることなく、50歳になると江戸に出ると天文学を学び始めたのである。
彼は19歳年下の気鋭の天文学者「高橋至時(よしとき)」に入門すると、やがて「地球の大きさを知りたい」と思うようになり、計算の誤差を縮めるために蝦夷地観測申請を幕府に提出する。これが伊能隊による観測旅行の始まりとなり、その後、計10回、約4万kmに及ぶ測量で、大図214枚、中図8枚、小図3枚からなる地図を完成させたのだ。
運命を自ら切り開いた男であった。
ハインリヒ・シュリーマン
子供の頃に抱いた夢を本当に実現させた男。
ギリシア神話に登場する伝説の都市「トロイア」の存在を信じつづけ、ついにそれを発見した。プロイセン王国に生まれたシュリーマンは、幼い頃に母親を亡くし、叔父の家に預けられた。貧困に苦しみながらも、ドイツ語だけでなく、英語、フランス語など15ヵ国語を習得する。
自伝によれば、
『私はどんな言語でもその習得を著しく容易にする方法を編み出したのである。その方法は簡単なもので、まず次のようなことをするのだ。大きな声で音読すること、ちょっとした翻訳をすること、毎日一回は授業を受け、興味のある対象については常に作文を書くこと』
などと記している。大きな声で何度も反復練習を行って英語をマスターし、さらに半年でフランス語も会得した。
この語学力を武器に商社マンとして成功した彼は、その富をもってトロイアの遺跡発掘へと乗り出したのである。
ジャン・アンリ・ファーブル
昆虫の生態をつぶさに観察して、美しい言葉で書き残したファーブル。
少年時代から経済的に恵まれず、南フランスを放浪しながら肉体労働などでその日暮らしを送っていた。しかし、学問への情熱だけは失わず、15歳のときにアヴィニョン師範学校の奨学生募集に応募して一番の成績で合格。卒業後に小学校教師になると、昆虫の生態に興味を持つようになった。博物学を学ぶようになり、30歳のときに学士号を取得すると、植物や昆虫に関する論文を次々と発表していった。
しかし、進歩的な講義は保守派の反感を買うことになり、学校を辞職することになって、『昆虫記』を書き始めるようになる。生活基盤を失い、経済的には再び苦しくなったが、10巻の昆虫記を書き残し、後世に貴重な資料を残したのである。
トーマス・アルバ・エジソン
数々の発明の裏にはおびただしいほどの失敗があった。
子供の頃はとにかく知りたがり屋で、学校で「1+1=2」と教えられても納得できない。ついに「君の頭は腐っている」といわれ、3ヵ月でスピード退学することになってしまった。学校教育の枠から外れてしまったエジソンだが、逆境をバネにして独学で自分が知りたいことを追い求めたのである。
そして、化学実験にのめり込むと、21歳のときに「投票記録機」を発明して初めて特許を取得。本格的に発明家として認められるようになった。1877年には蓄音機を実用化させ、電話や電気鉄道、電灯照明などを商品化してゆく。そのなかでも特に有名なのが白熱電球で、フィラメント(熱電子を放出する糸)に京都の竹を使ったというのは有名なエピソードだ。
最後に
運命を受け入れ、悲嘆に暮れる者もいれば、運命に抗う者もいる。そうして、逆境を乗り越えた者だけが発した言葉もある。
『私にできることは何か?運命以上のものになることだ!(ベートーヴェン)』
『お前がいつか出会う災いは、お前がおろそかにしたある時間の報いだ(ナポレオン)』
どれほど辛くても人生は変えられる。我々にも運命を変える力がきっとあるからだ。
関連記事:伊能忠敬
「【日本のフォーチュンクッキー!】江戸時代の占いについて調べてみた」
関連記事:占い、おまじない
「【恋愛で悩む方への】恋愛おまじない 3選」
この記事へのコメントはありません。