安土桃山時代

居合の達人・片山久安 【実戦向きの居合術、片山伯耆流の祖】

片山久安とは

片山久安

片山久安

片山久安(かたやまひさやす)は、実戦剣術が求められる戦国時代において「居合」を天下に認めさせた剣豪である。

時の関白・豊臣秀次豊臣秀頼に指南し、天皇の前で演舞を披露して「従五位下・伯耆守(ほうきのかみ)」を与えられ、その名を天下に知らしめた居合の達人・片山久安について迫る。

極意・磯之波

片山久安の出自などはあまり分かってはおらず、「居合(抜刀術)」の始祖・林崎甚助の弟子だとされる説もあるが、「片山伯耆流(かたやまほうきりゅう)」の伝承によると叔父・片山松庵から古伝十八刀、一子相伝の秘太刀を受けたとされている。

竹内流柔術の開祖・竹内久盛の親族(弟という説もある)であったともされていて、竹内久盛から柔術を学び、久安は逆に居合を久盛に教えあっていたと伝えられている。

幼少の頃より武芸を志した久安は、自ら学んだ技に満足することなく、諸国を廻って教えを請い剣術修業を続けていた。

文禄5年(1596年)正月、久安は京都の愛宕神社に参籠して、七日七夜にして夢で「」という字を見て極意「磯之波」の一刀を悟る。

久安は自分の居合と剣術を「一貫流」または「片山流」としたが、後に他の地域では「片山伯耆流」あるいは「伯耆流」と名乗った。

その後、久安の名声を聞いた時の関白・豊臣秀次から招かれる。そして久安の剣術が他と異なる理由を尋ねられた。

すると久安は「居合なるもの、これに先ずる者に先ずる也、すなわち治国平天下則也」という「自臨の居合」理論を述べた。

これに感心した秀次は久安を剣術指南役に迎え、秀次切腹後は豊臣家に仕え、豊臣秀頼の剣術指南になった。

片山伯耆流

久安の名声が諸国に伝わると、全国から久安に教えを請う者が集まるようになる。

時は戦国時代、戦場で役立つ実戦剣術が好まれた時代であり、久安の「片山伯耆流」は実戦居合という、甲冑を着込んで戦う時の居合術だった。

甲冑の最も弱い箇所である、甲冑外といわれる脇の下などを攻める居合剣術である。
手薄な脇の下を狙って切り上げるのだ。

また、甲冑は突きに対しての防御が弱いので「添え手突き」と、脇を切り上げる「逆袈裟切り」が基本となった。

甲冑は30kgほどの重さがあったので、かなり踏ん張って居合をしていたという。

伯耆守

名声を高めた久安は、慶長15年(1610年)後陽成天皇に召され、極意「磯之波」の一刀を天覧に供して「従五位下」に叙せられ「伯耆守(ほうきのかみ)」に任じられた。

大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると久安は浪人となり西国に流れ、元和2年(1615年)周防岩国藩主・吉川広家の客分として十人扶持百荷を給された。

吉川広家の嫡子・広正の剣術師範となり、岩国藩の重臣・佐伯直信の娘を娶っている。

久安は安定した生活を送っていたが、武術探求への思いが強く、やがて諸国へ武者修行の旅に出てしまう。

鹿島神宮を訪ねた時に、ついに自分の居合の極意を完成させて岩国に帰国し、岩国藩の剣術指南役として生き、慶安3年(1650年)3月7日、76歳で亡くなった。

久安の死後、「片山流」は久安の次男・久隆が継ぎ、片山家は岩国藩の武術の師範として仕え、明治維新後まで岩国藩に伝承された。

伯耆流居合術の広がり

大坂夏の陣の後、久安の弟子・浅見一無斎が、熊本藩内の各地で「伯耆流居合術」を伝えたために深く根付いたという。

その後、安永5年(1776年)浅見一無斎の「伯耆流居合術」を継承していた星野実定が岩国に赴き、第四代宗家・片山久義に学んで戻り「伯耆流居合術(星野派)」の基礎を築き、その息子・実寿は片山家に入門して目録を得た。

現在、熊本県内では星野派の居合術が「伯耆流居合術」として一般的に普及している。

伯耆流木村道場 http://iaikimura.s1008.xrea.com/index.html

岩国の宗家・片山家では居合(剣術を含む)と小具足(柔術)を伝えていたが、岩国藩と長州藩以外の熊本藩や広島藩では、居合のみのところが多かったという。

宗家の片山家では「片山流」「一貫流」と称しており、「片山伯耆流」とは名乗ったことはないが、他の地域では「片山伯耆流」や「伯耆流」としている。

片山宗家は第八代・片山武助が流儀の伝承を断念したため、現在「片山伯耆流」または「伯耆流居合術」として伝承されているのは、岩国藩・長州藩以外の地域で広まった系統なのである。

奥義磯之波

久安は後陽成天皇の御前で奥義「磯之波」を披露して「従五位下・伯耆守」に叙任された。

従五位下という官位は当時大名格が与えられていた位なのだから、きっと素晴らしい剣技だったと思われる。

「磯之波」を言葉で表すと「磯を打って速やかにその場を去り、本来住まいする地に平穏に暮らすことを隠した名」であるという。技の説明ではなく象徴的な言葉で現在に伝わっている。

「片山伯耆流」の基本の型は、相手の攻撃をかわしつつ一撃をくらわせ、更に二の太刀でとどめを刺すという構成である。

片山宗家が八代で途絶えているので、今となっては「磯之波」は伝説の剣技だと言える。

伯耆流の動画は、最近の映像とかなり昔の映像を見つけたので、参考までに貼っておく。

おわりに

片山久安は、甲冑を着た敵に対する実戦「居合」を天下に認めさせた剣豪であった。

戦国大名の多くは「戦で勝つため」「家臣たちを強くする」ために、剣客や剣豪と呼ばれる者たちを剣術指南役として招いた。

剣技一つで、大名と同格の従五位下に叙された奥義「磯之波」は、見てみたかったと思う者は多かったはずだ。

 

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