世の中にあまたある「超常現象」。
ビートたけしさん司会で、超常現象否定派と肯定派が激論を戦わせるバラエティ番組がありましたね。
年末恒例のもので、ひと頃は否定派代表の早稲田大学・大槻義彦教授と、肯定派代表の某出版社・韮澤潤一郎社長とがバチバチと火花を散らしておりました。
もちろん、激論と言ってもそこはバラエティ。
大のオトナが声を張り上げ、時としてののしり合う演出はエンターテイメントの域を出ないものであり、ましてやこの番組に学術的な検証の要素を求めるのは野暮というものでしょう。
そのことは百も承知の上であえて検証してみたい、番組内で語られた「体外離脱」体験談のリアル。
体外離脱とは、あたかも肉体から魂が離脱し、肉体の外側から自分を見ているような感覚や体験を得ることです。
肉体が実際に存在する位置からかなり離れた場所で、事物を見聞きするという体験を伴うこともあります。
件の番組内では、音楽ユニットに属するTさんが自らの体験を語りました。
この体験談に大槻教授も「不思議ですね~」の一言。
いやいや、そうじゃないでしょう。
大槻教授との邂逅
体験談の内容の前に、まずは大槻教授について。
大槻教授と言えば火の玉研究が有名で、その手の超常現象的なものに物理学で挑むことで名をはせた人物です。
80年代から90年代にかけて話題になった「ミステリーサークル」。
教授は、この調査・研究でも有名でした。
今「ミステリーサークル」と聞いて、どのくらいの人がピンと来るでしょう。
それは麦畑に現れる、主として円形のパターンです。
麦がバタバタと倒れて、全体としてある幾何学的パターンを形成します。
英語だと”Crop Circle”、「ミステリーサークル」は大槻教授の造語です。
写真は1991年、イギリス南部の田園地帯で、私が撮ったミステリーサークルの写真です。
上空からでなく目の高さからの撮影だと、どうしても全体像が分かりにくい写真になってしまいます。
それでも自然現象とは思えないほど対称性の高い形状に、麦がきれいに倒れているのが分かると思います。
最初は単純な円か円の組み合わせ程度だったのが、年々複雑化・緻密化し、最後は劇的に現代アート感丸出しになりました。
このような変化には、人為性を感ぜざるをえませんでした。
「自然現象なんかじゃないのでは?」と。
それで私は大学3年生の時、大槻教授のミステリーサークル調査チームに加わり、イギリスに渡航しました。
その時はまだ人工物であると断定されておらず、大槻教授はというと、「空中を飛び交うマイクロ波どうしの干渉による空気プラズマ仮説」を提唱していました。
つまり、自然現象と捉えていたわけですね。
大槻教授は、当時は毎年のように学生を引き連れて、イギリス調査旅行に行っていたようです。
私は所属大学が異なる中、意を決して手紙を書き、同行の許可を得たのでした。
現地での写真がコチラ。
レーダーも備えたこのキャンピングカーにこもり、交代で徹夜観測したのでした。
ちなみに右端のビデオカメラ覗いているご仁は、2024年現在、東京工芸大学非常勤講師の藤木文彦氏。
東大UFO研の設立者であり、UFO界隈では名の知れた人物ですね。
調査を進めるうちに、宇宙人が乗っている宇宙船という意味でのUFOについて否定派になった方です。
理性のそなわった方、と言えるでしょう。
こちらが滞在先のホテル前でのスナップ。
左端が大槻教授で、右端は現地イギリスの気象学者・ミードゥン博士。
真ん中はフランスの研究者(名前忘失)。
かくしてミステリーサークルの中に分け入り、皆で調査しましたよ、と。
イングランド南部のチッペンハムという田舎町に逗留し、ここを基地にあちこち回りながら、昼に夜に観測活動を繰り広げました。
※ちなみに、イギリス人に「チッペンハムに泊まった」と言ったら大笑いされました。何がおかしいのか分かる方がいたら教えてほしいです。
帰国後は早大理工学部の大槻教授の研究室に寄り、一泊させてもらいました。
理工学部の建物(18階建て)は当学部建築科の教授が設計したが「建ててみたら傾いたので、罰として最上階が建築科だ」などという、本当かウソかわからない裏話に花を咲かせながら。
歌手Tさんの体外離脱体験
思い出話は、これくらいにいたします。
例のビートたけし司会の番組、出演者が超常現象「肯定派」と「否定派」に分かれて討論を交わすのですが、前述のとおりそれは学術論争というようなものではなく、感情丸出しのつばぜり合いでした。
「論争」する風景を楽しむエンタメといった感じでしょうか。
それは踏まえつつ、番組制作サイドが意図した論調を、こちらが受け入れなければならない義理も無いわけで「別の見方もありますよ」と、敢えてここでは異なる視点を提起します。
某音楽ユニットのTさんが披露した、自身の体外離脱体験談、その内容をかいつまんで説明しましょう。
「体外離脱で空を自由に飛べないかな」などと夢想する日々を過ごしていた彼女は、寝入りばなに『魂を抜く』イメトレをしていました。
それが、どのようなものなのか私には知る由もありませんが、ある時本当に「抜けた感覚」を彼女は得たそうです。
横たわる自分の身体を上の方から客観視でき、自由に空間を飛ぶリアルな感覚があり、家の外に出て、都内、大阪、函館、さらにはアメリカ上空を飛び回りました。
そして、大気圏を抜け宇宙にも飛び出し、青くて美しい地球を見て感動したそうです。
本人曰く「このような体外離脱体験ができたのは、高校の3年間だけだった」とのこと。
その後何年かして、所属する音楽ユニットのコンサートツアーで名古屋に行きました。
そこは初めて来た場所なのに「そこを曲がると病院がある」と感じたのです。
行ってみると本当に病院があって、他のメンバーも驚いたそうです。
これが彼女の体験談の要約です。
つまり、過去の体外離脱中に名古屋で見た風景の記憶を元に「そこを曲がると病院がある」と予言し、見事的中したのです。
体験談に潜む魔物
この「体外離脱体験」の証言で、超常現象肯定派は大変盛り上がりました。
特に後半の病院の件は、ホンモノの体外離脱としか思えません。
しかし私は、この一連の流れに違和感を覚えました。
なぜなら、私も似たような経験があるからです。
中学生の頃、その時私は教室の中にいたのですが、ふと、友人のH君が目の前の入り口から入ってくる気がしました。
なんらの外的要因やきっかけもなく、ただ、ふとそう思えただけ。
「Hが入ってくる」
指さしながら周囲の友人に言うと、本当にものの1~2秒で指さしたドアからH君が入ってきたのです。
未来に目の当たりにすることを予知したという点で、現象論的には「角を曲がったら病院‥」と同じです。
こちらは体外離脱とは関係ありません。
予知した感覚、それホンモノ?
「Hが入ってくることが予知された」というこの現象、それは外形通り「予知」なのでしょうか?
慶応大学・前野教授によれば、「人は無意識のうちに思考・知覚・記憶想起の並列分散処理を行っている」とのことです。
例えば、今ノートPCでこの文章を書いている私は、次に書き出す文章を考えるとき、当然その内容について思考する傍ら、
PC画面を見て、
PC画面以外の部屋内の風景を見て、
座っている椅子の座面の圧力を尻で感じ、
キーをたたく感触を指先で感じ、
外を走る車の音を聞き、
エアコンの吹き出し音を聞き、
オフィスに流れるBGMや他人が電話で会話する声を聴き、
アロマのにおいを感じ、
コーヒーを味わっています。
書き出せば多種多様、雑多な作業の全てを、混乱することもなく無意識に同時並行で行っているのです。
ということは「脳はこれらの情報処理を並列分散的に、かつ無意識に行っている」ということになります。
もっとも分かりやすいのは寝ている時でしょう。
夢の中で起こる現象は、まさに支離滅裂です。
今の勤め先に小学校時代の友人がいたかと思うと、場面が急に実家の部屋に移ったり‥‥などと突発的に多様なできごとが、なんの脈絡もなく起きていきます。
さらに不思議なことに、夢の中ではそのような支離滅裂になんの違和感も覚えないのです。
これはまさに、脳の無意識部位の並列分散処理の現れです。
その無意識の多くの処理結果の中で、最も多くの脳神経細胞が処理に参加した事項が意識に上り、記憶部位に貯蔵される、というのが前野理論です。
つまり、「突発的に雑多な内容の記憶や思考・感覚が、ふいに意識に上ってくることは日常的にある」ということです。
それの内容が時として「その角を曲がったら病院がある」だったり、「今、H君がそこの入り口から入ってくる」だったりするわけです。
当然ながら、未来に起こる事象に関することは、多くの場合「ハズレ」です。
外れるのが当たり前なのでそれはごく普通のケースであり、印象に残らない → 記憶に残らない → 「なかったことになる」。
ですが、たまには当たることもあるわけです。
そして、それがたまたま当たった時は感激し、周りにも言いたくなる。
印象に残り、記憶にも残ります。
人為的「記憶植え付け」実験
記憶に関する有名な実験があります。
それは「誤った記憶を、人に人為的に植え付ける」というロフタスがおこなった実験です。
実験では被験者に、「幼少期の記憶」を尋ねていきます。
ですがその前に、ある特定の事実が「過去に存在しない」ことを事前に両親やその他、身内の人たちに聞いておきます。
例えば「5歳の時ショッピング街で迷子になった」ことがなかったことを確認しておく必要があります。
その上で、迷子になった記憶を人為的に植え付ける、というわけです。
肉親からは、被験者の幼少期に実際に起こったことも3つ聞き出しておきます。
そして、実際にあった事実と架空の迷子事件の計4つの出来事を紙に書き、被験者に渡して、聞き取り調査をしていくのです。
もちろん被験者は、その中に架空の事件が含まれていることを知りません。
その結果、実際に起こった出来事については、68%が思い出されました。
一方、架空の迷子事件についても、26%の人が「思い出した」のです。
他者がイメージを操作したり暗示を与えたりすることにより、人にニセ記憶を本当の記憶として「思い出させる」ことができると分かったのです。
要するに、記憶は単に薄れるだけでなく、環境など外的要因により入れ替わることもある、ということです。
自覚があるようでない「記憶のあいまいさ」
人の記憶が「あいまい」であることは、よく知られています。
特に、日常生活での物忘れは、誰にでも経験はあるでしょう。
人は「なくなった記憶」には気づきやすいのです。
たまに通る街角の建物がある時突然変わっていると、以前建っていた建物が思い出せない、といったことはよくあります。
しかし建物がなくなっただけなら、その跡のさら地には当然気づきます。
つまり、「モノが無くなった」ことには気づきやすいですが、「モノがAからBへ変わった」には気づきにくいのです。
記憶も同様に、なくなったことには気づきやすいですが、記憶内容の変遷には気づきにくいのです。
つまり、「内容が入れ替わっても気づかず、かつ記憶の確からしさだけはある」という傾向があるのです。
まさにそれが「自分の記憶」であるがゆえに疑いを持ちにくい、ということに注意を向ける必要があります。
「こうであって欲しい」という期待がそれに沿った形で記憶をすり替える、ということも起こり得る事実なのです。
集合記憶をどうとらえる?
今の例で言えば、Tさんには元々「幽体離脱したい」という願望があり「魂を抜く」イメトレをしていました。
その幽体離脱願望が、記憶を都合よく変容させた可能性も考えられるのです。
Tさんの逸話の中ではTさんが「あの角を曲がったところに病院がある」と、角を曲がる前の段階で周囲の友人に言い、そして曲がってみたら本当にあった、ということになっています。
そして、そこにいた友人たちも彼女の証言を支持している、ということになっています。
仮にそうだとして、ではそれはどのように解釈できるでしょうか。
Tさんの「予言」は、他の人の「確かに言っていた」証言で補強されるでしょうか。
1つの可能性として、実際に起こったことは、心のなかで「曲がったら病院が‥」と思い(前の理論によれば、この予感めいた「思い」は常日頃我々の脳裏にうかんでいる)、曲がったら実際に病院があったので自分でも驚いて、予知できたと吹聴した、ということなのかも知れません。
そして、それがさらに装飾を受けて、角を曲がる前に友人に言ったことになった。
友人もその記憶の変遷を受け入れた、と。
ほぼイチャモンですがこれは可能性の話、無いとは言えない。
というより、記憶の特質から考えたら大いにあり得ることなのです。
或いはもっと単純に、初めての土地なので実は事前に地図を見たことがあり、近所に病院があることもある程度把握していた。
今は現在地の地図もスマフォで簡単に出せるし、など。
さらに言えば、他人の言うことをなんでも額面通りに真実と受け入れる姿勢の方が不自然とも言えるでしょう。
超常現象に限らず人の体験談というのは、相手に仮にウソをつこうという意図がなかったとしても、上述のようなさまざまな種類の記憶のエラーが起こりうることを念頭に置きながら受け止めるほうが、安全です。
巷に出回る効果のないサプリや講座などの高額商材も、山のような愛用者の体験談で「裏打ち」されています。
人類の智慧は、確かめながら一歩ずつ。その先に時として大きな飛躍があるものです。
「確かめながら‥」の過程なく飛躍だけが訪れる、ということはありません。
その中身がこと超常現象に関することだったら、真に受けず、深入りもせず、お話として気楽に楽しむことが正しい受け止め方なのかもしれません。
参考:『ロボットの心のつくり方 日本ロボット学会誌 Vol 23 No. 1, pp.51-62, 2005 前野隆司』『Creating childhood memories. Applied Cognitive Psychology, 11, S75-S86 (1997) Loftus, E. F.』
文 / 種市孝 校正 / 草の実堂編集部
高城れにの話だな