独特な文明を持つマヤ文明は、世界の四大文明には含まれないために詳細を学ぶ機会は少ない。
しかし、現代に生きる我々の目から見ても驚くべき高度な文明だった。
今回は、その一端を調べてみたいと思う。
マヤの世界観は方位が重要
マヤ人の世界観は天動説を基本にしている。
世界は13層の天上界と大地、9層の地下界によって構成されていると信じられていた。なかでも大切なのは「大地」であり、大地は海に浮かぶワニ、もしくはカメの背中と考え、雨と雷を司る四人のチャーク神が東西南北にいると思っていた。
大地の中心には「セイバの木」という生命の木が立ち、その枝は天上界へ、その根は地下界に繋がって世界を支えているとも考えたのである。さらに東西南北にも4本の命の木が立つとされていた。これは北欧神話の世界樹「ユグドラシル」にも非常に似ている。
このようにマヤ人は古来より方位を認識し、重視するとともに方位と同じ「4」という数字も重視している。
さらに各方位には、太陽の運行との関連性から色を振り分けた。そして、中心を緑としたために神聖な色とされて、翡翠(ひすい)が重用されるようになった。マヤの宝石=翡翠というイメージはこのためである。
4万字を超えるマヤ文字とゼロの概念
メソアメリカ(中米)初の文字はメキシコ南部の遺跡で発見された。紀元前700年から400年頃の遺跡である。この文字はマヤ文明で発展したものだが、マヤ人は歴史に関する碑文などを石碑や祭壇、階段などに刻んだり、文書や土器などにも刻んでいる。
マヤの文字は非常に複雑な組み合わせで構成されており、総数は4~5万字といわれているが、もっと多い可能性もあるという。スペインの侵攻により、マヤ文字は使用を禁じられたため、一時は「謎の文字」となってしまったが、1950年代にロシアの言語学者が文字体系を解明したことにより、現在では約80%の文字が解読されたといわれている。
※漆喰に刻まれたマヤ文字。一文字が複雑な組み合わせから構成されていることが分かる。
さらにマヤ文明は0(ゼロ)の概念を持った世界最古の文明として知られているが、これは我々の知る「0=無」「起点」といった概念とは違い、「完了」や「満杯」といった意味で使われていたという。マヤ人は両手足の指を使って数を数えていたので、20で一桁繰り上がる20進法を生み出したのだ(一桁目は20で完了するという意味)。
天文学と世界終末論
マヤ文明の特徴のひとつに高度な天文学の知識を持っていた点が上げられる。
マヤ人は、時間の計測、地上の事象を把握するために、肉眼で天空を観測していたという。それも望遠鏡もない時代に、驚くべき正確さで観測結果を残している。観測は政治的、宗教的な意味も持ち合わせていたために支配層が行い、太陽、月、金星などの動きからその周期を読み取り、日食や月食などの天文現象の研究までされていた。太陽と金星の周期をほぼ正確に算出し、そこから現代人が見ても驚くべき精密さの暦も生み出している。
※マヤの天文台。
そこまでしてマヤ人が精密な暦を求めたのは、農作における種蒔きや収穫の時期を知るためでもあった。20進法を使っていたマヤ人は、一ヵ月を20日(0~19日)と定め、1年は18カ月として、この360日を1トゥンと呼んだ。そこに5日間をプラスすることで、より正確な365日という暦を作りあげた。
さらにマヤ人は儀式などのために別の暦も使用しており、このふたつの暦を組み合わせると約52年で一巡すると考えられ、循環暦と呼ばれる長期的な暦は歴史の記録に使用されたという。その上には5125年で一巡すると考える長期歴が存在しており、マヤの世界が始まった日を起点にすると西暦2012年が節目となるために「2012年世界終末論」が流行ったのである。
マヤの建築技術
マヤ文明の建築物といえばピラミッドが有名だ。
「ククルカンのピラミッド」は4面に各91段の階段があり、春分の日と秋分の日には9段のテラスの影が大地に蛇の胴体を描くという事はよく知られている。
※ククルカンのピラミッド。91段×4面で計364。それに頂上の神殿を合わせると、一年と同じ「365」になるという。
こうした巨大建築物は公共の祭祀建築であり、都市はここを中心に広がっていた。
巨大建築物が面する公共広場の近くには王や支配層が住み、その周辺に農民らが住むことで都市という形が作られるようになる。その中心部には漆喰を塗った建築物が並び、さながら現代のコンクリートジャングルに似た景色だった。その周囲には樹木やトウモロコシ畑などが広がり、市街と緑地を組み合わせた独特の都市を形成していたのである。また、大部分の都市には城壁が見られないのも特徴だ。
巨大建築物に使われる石は、当然ながら人の手だけで切り出され、運ばれて積み上げられた。さらにマヤでは古い建築物の上に新しい建物を増改築するために王宮やピラミッドはより大きくなっていった。そのため、現代における調査を困難にしている一因でもある。
また、石材となった石灰岩は雨に弱いという弱点を持っていた。そこで、石灰岩を砕いた粉を焼いて水と混ぜた漆喰を塗るという解決策を生み出す。固まった漆喰は水をはじくことができるため、現代までマヤの建物を残すこととなった。
最後に
マヤの文化は実に奥が深い。奥が深いだけでなく裾野も広い。
ジャングルのなかで独特の発展を遂げたからだ。そのために発見も調査も難航した。しかし、石に漆喰を塗るという技術が経年変化から巨大建築物を守り、そのおかげで建物に刻まれた文字が発見された。その文字を解読することで暦や天文学などの高度な技術を持っていたことが確認できるようになったのである。
すべてはマヤの技術の高さが、その文明観や歴史を後世に伝えることになったのだ。
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