宮沢賢治は、誰もが知る有名な童話作家である。
幻想的で美しい表現にユーモラスなキャラクターが登場する作品が印象的で、代表作に「銀河鉄道の夜」「注文の多い料理店」などがある。また心の中の理想郷を表す「イーハトーブ」という造語も有名である。
彼のどのような人物だったのだろうか?
心優しい少年時代
宮沢賢治は1896年に岩手県花巻市で生まれ、幼少期から学業優秀で農林学校卒業後は助教授推薦を持ちかけられるほどだった。
子供時代は、いたずらをした罰として水が満杯に入った茶碗を持たされ廊下に立たされた生徒に「ひどいだろう、大変だろう」と水を飲み干してあげたり、赤い服を着てきてからかわれている同級生を見て「俺も赤いシャツを着てくるから、いじめるなら俺をいじめてくれ」とかばったりしたという。
石を好んで収集する鉱物愛好家でもあり、賢治のその優しさや自然を愛する心は作品の中にも反映されている。
実家は質屋を営む裕福な家庭で、後の賢治はレコードを収集するようになるのだが、通っていたレコード店の売上が賢治のおかげで上がり、イギリスのレコード会社から感謝状を送られたというエピソードもある。
長男だった賢治は将来は家業を継ぐことを期待されていたが、賢治は質・古着商を嫌っていたため父との衝突があった。
質屋を嫌っていた理由は、お金を借りにくる人はどうしても貧しい人が多い状況だったからである。
賢治は貧しい人から安い金額で物を買い取り、その買い取ったものをそれよりも高い金額で売り利益を出すという家業が嫌だったのである。
日蓮宗を信仰
実家は浄土真宗を信仰しており、その教えは「一人一人が生き方を改め努力して極楽浄土へ行く」というものだった。
一方賢治は日蓮宗の法華経の教えを信仰しており「周囲の人と協力して助け合い、生き方を改めみんなで極楽浄土へ行く」という教えだった。
賢治の作品には法華経の教えが反映されているといわれ、1924年頃、教師をしていた頃に書いた「銀河鉄道の夜」にタイタニック号に乗った客が、自分の危険をかえりみず、他の客を助けるというエピソードが登場している。
1926年、賢治は教師を退職し野菜を自ら作るようになる。農業を営みながら、肥料に関する相談、農業指導の仕事も積極的に行い、農民の生活向上のために集会や童話の朗読会を行ったりする「羅須地人協会」を設立した。
その後も積極的に活動を続けるが、1933年に急性肺炎で死去。(37歳没)
それまでの賢治はほぼ無名だったが、その後、詩人の草野心平らにより、賢治の作品が世の中に知られるようになる。
なんちゃってベジタリアン
賢治は1918年頃から菜食生活をしていた。
当時日本では作家のトルストイの影響で一部の人々に菜食主義が受け入れられ、賢治も「動物の命を大事にしたい」と考えたのである。
友人の保阪嘉内に宛てた手紙には「生物のからだを食うのをやめました」と綴っている。
しかしその後に出した手紙には、刺身や茶碗蒸しを食べてしまった事が書かれており、菜食生活を続けるのは難しかったようである。
賢治の作品「ビヂテリアン大祭」は、菜食主義について議論される内容になっている。
童貞、禁欲生活
時代的にも周りの圧力で結婚を勧められるのが当たり前の中で、賢治は生涯独身・童貞を貫いた。
童貞だった理由としては、一つは賢治が17歳の時にすでに結核の初期症状があり、パートナーに感染してしまうのを避けるため。もう一つは、性欲を乱費すると良い仕事が出来なくなってしまうと考えていたためだ。
賢治は友人の藤原嘉藤治に「性欲の乱費は君自殺だよ、良い仕事はできないよ」と語っている。
しかし童貞を貫くのはなかなかの苦労だったようである。
こんな逸話がある。
ある朝、賢治に会うと、顔が紅潮して溌剌(はつらつ)としていた。聞くと牧場に行ってきたという。昨日の夕方出掛けて一晩中歩いて今朝帰ってきたそうだ。
賢治は「性欲の苦しみは並大抵ではありません」と言っていた。
また別の話では
トランクいっぱいに童話を書いた原稿を持って、東京から帰ってきた賢治は、驚く弟に対して「童子(わらし)こさえる代わりに書いたのだもや」と語った。
夜中歩き回るほどの性欲をエネルギーにし、創作活動をしていた。
まさに賢治の作品が子供であるのだ。
春画コレクター
賢治は浮世絵を集めていたが、その一部はアダルトな題材を扱った春画であった。それらを時々、同僚達と批評しながら楽しんでいた。
そのコレクションを積み上げると高さは30センチにもなったという。
また、一時期熱心に読んでいた本の一つにハヴロック・エリスの「性の心理」というものがあった。これは性教育の問題を扱ったものであったが、本国イギリスではそのきわどい内容もあって出版が差し止められるほどだった。
日本語訳の本で伏せ字になっている部分があったが、仙台の本屋で原書が見れることを知ると、行って確かめていたという。
賢治はこの本の事を聞かれると「学校の教え子たちが性で間違いを起こさないように教えたいので」と答えた。また「猥談は大人の童話みたいなもので頭を休めるもの、誰を憎むというわけでも人を傷つけるというものでもなく、悪いものではない。性は自然の花だ」と話していたという。
このように宮沢賢治は性に対して決して清廉潔白というわけではなく、通常の男性と同じように欲はあったようである。
それは人や自然を愛し、素晴らしい作品を残した一人の童話作家の人間らしい素顔であった。
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