1991年1月、イラクに対する多国籍軍の攻撃が開始され、湾岸戦争が勃発しました。
第二次世界大戦後に生じた初の本格的な軍事衝突であり、アラブ諸国も含めた国連中心による多国籍軍の結成は、国際社会の団結を象徴する出来事でもありました。
空爆と100時間に及ぶ地上戦の末、イラク軍はクウェートから撤退。フセイン政権の打倒には至りませんでしたが、アメリカ主導の多国籍軍28か国、84万人もの軍事力は、冷戦後の国際協調の成果でもありました。
今回の記事では、湾岸戦争が世界に与えた影響、そしてサダム・フセインの終焉について見ていきたいと思います。
砂漠の嵐作戦
1991年1月17日未明、国連が設定した撤退期限の直後に、イラクに対する多国籍軍の攻撃が始まりました。
湾岸戦争の始まりです。
アメリカ空軍のB-52爆撃機はルイジアナ州の基地から発進し、途中で空中給油を受けながらイラクを攻撃。爆撃後は再びアメリカに戻っていきました。
さらにイギリスやスペインにあるアメリカ軍基地からも出撃しています。
レーダーに映りにくいステルス爆撃機と戦闘機が、イラク軍のレーダー基地や通信施設を密かに攻撃し、イラク軍は瞬く間に情報収集能力を失います。
CNNはバグダッドの対空射撃の映像を伝え、イラクの防空部隊が攻撃目標を掴めずに対空砲を乱射している様子が映し出されました。
実戦部隊との連絡手段も失われたイラク軍は、クウェートに駐留する軍隊に対する命令を送れなくなります。そのため「人間が片道48時間かけて伝えにいく」という、まるで古代人のような方法を取ったのです。
もはや勝負は決しました。
多国籍軍は一か月以上に渡る空爆を続けたため、イラク軍は完全に沈黙。
そして2月24日午前3時、地上戦に踏み切りました。
多国籍軍は、クウェートの東海岸に海兵隊を集結させる陽動作戦を展開し、実際には西の砂漠地帯からイラク軍を背後から攻撃しました。
この戦術によって疲弊したイラク軍の兵士は、次々に降伏します。
多すぎる捕虜の対応によって、地上部隊の進撃が遅れるハプニングもありましたが力の差は明らかでした。
地上攻撃はわずか100時間で終結し、イラク軍はクウェートから無条件で撤退したのです。
「ニンテンドーウォー」
湾岸戦争は、アメリカで「ニンテンドーウォー」とも呼ばれました。
この比喩は、日本ではお馴染みの「任天堂」に由来しています。当時のアメリカでは、テレビゲーム全般を指す言葉として使われていました。
戦争で使用されたハイテク兵器による航空攻撃は、まるでビデオゲームのスクリーン上で見るような精密さだったためです。
湾岸戦争は「ハイテク兵器の力を世界に示した戦争」としても記憶されています。
テレビでは、多国籍軍の戦闘機から発射されたミサイルや爆弾が、イラク軍の目標に正確に命中する映像が次々と公開されました。
命中する映像の正確さについて、軍事評論家の江畑謙介氏は「命中した映像だけを公開している」と述べ、戦争における“宣伝(プロパガンダ)”の重要性を指摘しています。
この戦争を通じて「ピンポイント攻撃(爆撃)」という言葉も生まれましたが、実際には民間施設への誤爆も多く発生しています。この真実が明らかになったのは、戦争が終結した後でした。
また、イスラエルに飛来したイラクのミサイルを、アメリカ軍が「パトリオット」という迎撃ミサイルで撃ち落とす映像も頻繁に放映されました。
ハイテク兵器の威力を誇示する宣伝でしたが、戦後の検証では、パトリオットミサイルがイラクのミサイルを撃ち落とすことには成功しても、その弾頭を破壊できず地上に落ちたため、被害を防ぐことには失敗していたことが判明しています。
湾岸戦争後もフセイン独裁は揺るがず
湾岸戦争でアメリカ主導の多国籍軍に敗北した後も、イラクのサダム・フセインは、強権的な手法を行使して権力基盤を保つために必死でした。
国内の反対勢力に対しては厳しい弾圧を繰り返し、クルド人の反乱には軍を投入して完全に鎮圧しています。
シーア派イスラム教徒に対して度重なる人権侵害が起きたため、国連の有志国はクルド人・シーア派の保護区を設け、イラク空域を監視する体制を整えたのです。
湾岸戦争に敗北した後も、核兵器・生物化学兵器の開発を密かに進めるなど、フセインの独裁体質は一向に改まる気配がありませんでした。
国力の復興と体制の維持を果てしなく追求するフセインの姿勢は、国際社会の警戒を招き続けたのです。
「メディア」の戦争、情報操作が影を落とす
湾岸戦争当時、フセインやアメリカのブッシュ大統領ら関係者は、CNNのニュース報道を頻繁にチェックし、最新の状況を把握する手段として活用していました。
この状況は「メディア戦争」とも呼ばれました。
フセインはイラク国内に残っていたCNN記者を通じ、イラク政府やフセイン自身の見解を国際社会に発信。プロパガンダとしてCNNの影響力を利用しようとしたのです。
アメリカ人からすれば「敵国」である、イラク側のメッセージを伝えるCNNの姿勢に批判が集まりました。「敵の言い分を伝えるのは、敵を有利にする行為だ」というわけです。
戦争に直接関わっている記者が、客観的な報道を続けること、そしてジャーナリズムの理念を貫くことの困難さを痛感させるエピソードでした。
一方のアメリカ軍もベトナム戦争の反省から、メディアに対する徹底的な情報統制を敷いています。
ベトナム戦争のときには、戦場の惨状が米国内にいち早く伝わり、世論の反戦感情を高めてしまった反省がありました。
そのため湾岸戦争時には、現地入りした記者1400人のうち、軍に同行できる記者を192人に限定しています。その192人に対しても、全ての文字・映像情報は軍の検閲を通過しない限り、情報の発信を禁じています。
空爆の成功映像を集中的に流す一方、地上戦開始時には偽の情報を流すことで、湾岸戦争への世論支持を取り付けるなど、徹底した情報統制を実施したのです。
「テロとの戦い」でフセイン政権は崩壊
湾岸戦争後も、サダム・フセインは権力の座にとどまり続けましたが、2001年のアメリカ同時多発テロをきっかけに運命が激変します。
ブッシュ大統領(子ブッシュ)は「テロとの戦い」を掲げ、イラクを攻撃するための口実としました。
「大量破壊兵器の保有」を理由として、2003年3月20日、アメリカが主導する有志連合軍はイラクへ攻撃を開始し、4月9日にイラクの首都バグダードが陥落しました。
しかし大量破壊兵器が見つからなかっため、戦争の大義名分は「民主化」にすり替えられています。
逃亡を続けていたサダム・フセインは、同年12月13日、ティクリート近郊の地下壕でアメリカ軍に拘束されました。
2006年11月5日、イラクの裁判所がサダム・フセインに死刑判決を下します。
そして2006年12月30日午前3時頃、バグダードで死刑が執行されたのです。
参考文献:池上彰(2007)『そうだったのか! 現代史』集英社
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