時代で変わる宮女の制度

画像 : 宮女たち 草の実堂作成(AI)
古代中国における「宮女」は、時代とともに制度も役割も大きく変化した存在である。
表向きは皇帝や妃に仕える「後宮の侍女」として扱われていたが、その実態は、政治・軍事・経済の背景と深く結びついていた。
宮女制度の起源は、古代の戦国時代にさかのぼる。
最初期の宮女は、しばしば戦敗国の女性捕虜であった。
勝者が敗者の女たちを「戦利品」として宮廷に連行し、奴婢や侍女として使役したのである。彼女たちは家族を奪われ、見知らぬ土地で自由を奪われたまま、宮中の過酷な生活に投じられた。
時代が下るにつれ、宮女の出自と選抜制度は次第に整備されていく。
たとえば漢朝初期には、宮女の人数はわずか十数名に過ぎなかったとされている。

画像 : 漢武帝 public domain
しかし、第7代皇帝・漢武帝(在位:紀元前141年~紀元前87年)の治世になると、後宮の規模も急拡大し、数千人規模へと膨れ上がった。
唐朝ではさらに拍車がかかり、第9代皇帝・唐玄宗(在位:712年~756年)の時代には、後宮におよそ四万人もの宮女がいたとされる。
宮女の大規模な収集は唐の国力を象徴していたが、一方で若い女性たちを数万人単位で宮中に閉じ込めることは、国家の出生率を下げ、社会構造にも影を落とした。
清代には制度化が進み、3年ごとに宮女の選抜が行われ、多くは軍事と行政を担う支配組織「八旗」に属する家の娘たちから選ばれた。
彼女たちはただ働くだけでなく、宮廷の秩序や文化を体現する役割も担わされていた。
そして宮女たちの多くは、一生を後宮の中で過ごし、運よく出宮できたとしても、子を授かることなく人生を終える者が少なくなかった。
いったい何が、彼女たちの未来をそこまで奪ってしまったのか。
出宮することすら困難だった

画像 : 妃と宮女たち 草の実堂作成(AI)
古代の宮女は「一たび宮門に入れば、生涯そのまま」と言われるほど、皇宮に縛られた存在だった。
「出宮」は、基本的に制度化されておらず、多くは例外的措置によってのみ実現していた。
たとえば、皇后や賢妃の進言によって出宮が実現することもあった。
唐の太宗の言行録『貞観政要』によれば、長孫皇后が太宗に対し、「宮女を解放すれば宮中の支出が減り、彼女たちは家庭を持ち、親に孝を尽くすことができる」と進言し、3千人の宮女が帰郷を許されたという。
また、大赦や天災、皇帝の懺悔といった政治的・宗教的なきっかけによって、出宮が実現することもあった。
宋の太祖・趙匡胤は、深刻な日照りが続いた際、それを自らの贅沢が招いた天罰だと恐れ、大勢の宮女を出宮させたと記録されている。
明代では、皇帝の代替わりにあたって、先帝に仕えていた宮女たちがまとめて出宮させられることがあった。
とはいえ、こうした機会はごく限られており、出宮を許された頃には、彼女たちの多くはすでに年齢を重ねていた。
いずれにせよ、これらは特異な事例であり、大多数の宮女は老いるまで働かされ、そのまま後宮の中で人生を終えたのである。
出宮できても「出会い」や「居場所」がなかった
ようやく外に出られたとしても、待っていたのは決して希望ではなかった。
出宮した女性たちは多くの場合、家もなく、婚姻も叶わず、尼寺で余生を送ることが多かったのだ。
まず、多くの宮女は婚期を逸していた。
古代において女子の最適な結婚年齢は15歳前後とされており、25歳を過ぎると“行き遅れ”と見なされた。
清期においては制度上25歳ほどで出宮できることもあったが、それでも妊娠・出産に最適な時期は過ぎており、正妻に迎えられることは稀だった。
また、彼女たちは皇宮での規律や所作に長けていたため、身分の低い男性を見下しがちであった一方、男性側からも「太監(宦官)と関係を持っていたのではないか」という偏見で忌避されることが多かった。
とりわけ明清時代には、宮女と宦官が私的関係を持つ「对食」が横行しており、乾隆帝がそれを明確に禁じた記録も残されている。『※国朝宫史』
つまり、彼女たちは外に出ても“居場所”がない存在だったのである。
ごく少数、良縁に恵まれて嫁いだ者もいたが、それは例外中の例外であり、子を持つ機会は極めて限られていた。
蓄積された心身のダメージ

画像 : 体調を崩した宮女 草の実堂作成(AI)
宮女たちが、出宮しても子を産めなかった要因は他にもある。
それは、彼女たちの心と体が、長年の宮中生活によって徹底的に蝕まれていたことである。
まず第一に挙げられるのが、過重労働と栄養失調による身体機能の破壊である。
宮女たちは日々、過酷な労働に追われていた。
洗濯、掃除、裁縫、炊事、そして妃や皇子の身の回りの世話、すべてが手作業であり、休みはなく、交代要員も少なかった。
中国には「起得比鸡早,睡得比狗晚(起きるのは鶏より早く、寝るのは犬より遅い)」という底辺層の過酷な日常を表す言葉があるが、まさに彼女たちの生活を表している。
しかも、その労働に見合う栄養は与えられていなかった。
宮女たちが口にできたのは粗粟や野菜が中心で、肉類や精製された穀物はほとんど配給されなかった。
こうした生活は、生殖に不可欠な内分泌機能や栄養代謝を著しく低下させた。
第二の要因は、睡眠不足と生理リズムの破壊である。
宮中では、生活時間が皇帝や妃の都合によって左右されていた。
突然夜中に起こされて湯浴みの準備をさせられる、急な呼び出しに備えて常時待機するなど、不規則かつ慢性的な睡眠不足が常態化していた。
このような生活リズムの乱れは、女性ホルモンの分泌に悪影響を与え、月経不順、排卵障害を引き起こす。いくら若くとも、生理機能が破壊されていれば妊娠は困難となる。
第三に、心理的ストレスの蓄積による自律神経の崩壊である。
宮女はいつも不安と恐怖の中で生きていた。言葉遣い一つ、表情一つで、上司の機嫌を損ねれば、打罰や死罪さえあり得た。
さらに、宦官との接触すら監視対象であり、表立って誰かと親しくすることも難しかった。
つまり、精神的な抑圧が不妊を招いたのである。
実際、清代内務府の公文書『内务府奏案』『内务府奏销档』などには、多くの宮女が痨病(結核)・癲癇・哮喘・胃病・肝病などに罹患していた記録がある。
原文:
乾隆四十八年六月,就有多达十几名宫女被查出肝病,御医为她们开了很多疏肝和胃的方子,连具体患病宫女的名字都有记载。意訳:
乾隆48年(1783年)6月、10数名もの宮女が「肝の病」と診断され、御医(宮廷医師)によって「肝を整え、胃を調える」処方が多数出された。さらに、誰が病気だったのかという具体的な宮女の名前まで記録に残されている。『内务府奏销档』より
このような肝機能障害は、当時においても精神的抑圧が原因とされており、月経不順や無排卵を引き起こすと認識されていた。
また、労働過多や感情の抑圧から発生する「血郁」という症状も多く見られた。
血の巡りが悪くなり、冷え・倦怠・無月経を引き起こし、重度の場合には永久的な不妊を招くとされている。
つまり、出宮した時点で、彼女たちの体と心はすでに“母になれる状態”ではなかったのである。
閉ざされた人生の果てに
このように宮女たちの多くは、子を授かるという可能性を閉ざされていた。
清代に至り、ようやく出宮の制度が整えられたものの、出宮する頃には多くの宮女の心や体は傷つき、社会にも居場所はなかった。
一見「自由を得た」かのように見えるが、実際には「多くのものを失って放り出される」だけのことだった。
だが中には、抑圧の底で怒りを育て、ついに反逆という決断に至った者たちもいた。

画像 : 壬寅宮変 草の実堂作成(AI)
明代に起きた事件「壬寅宮変(じんいんきゅうへん)」では、長年の苦役に耐えかねた一部の宮女たちが、皇帝暗殺を計画し、実行に移している。
結局、暗殺は失敗に終わったが、抑圧された宮女たちが最後に選んだ手段が「反乱」だったという事実は、制度の歪みの象徴である。
彼女たちの多くは、名も顔も残さなかった。
だが彼女たちの存在は、今もなお「人間とは何か」「女性とは誰か」という問いを私たちに突きつけている。
参考 :『漢書』『明史』『内务府奏销档』他
文 / 草の実堂編集部
この記事へのコメントはありません。