紀元前221年、始皇帝は「秦(しん)」の王となってから、わずか26年で中国全土を統一した。中国初の統一国家である秦。
しかし、その実態は長らく謎に包まれていた。20世紀最大の考古学的発見といわれる「兵馬俑(へいばよう)」では、等身大の兵士たちが始皇帝を守る姿から、始皇帝の統一を支えた強大な軍事力の秘密が解き明かされてきた。
圧倒的な軍事力と、優れた統制力。
中国大陸を制覇した始皇帝は、500年余りも続いた戦国の世に終止符を打ち、今に続く統一国家の礎を築いたのである。
兵馬俑が伝える軍事力
中国の古都「西安」の東にそびえる丘、それが始皇帝が自らのために築いた墓「始皇帝陵」である。
高さ約53m、350m四方という大規模なものだ。その始皇帝陵から東へ約1.5km、麦畑で井戸を掘っていた農民が素焼きの兵士の像を掘り当てた。1974年のことである。この発掘を切っ掛けに調査を進めると、兵馬俑の全体が見えてきた。
2,200年の眠りから甦った地下の軍団は、始皇帝直属の親衛隊の姿を模したものであった。その数、およそ8,000体。兵だけでなく、素焼きの馬、馬が引く戦車などもあり、まさに精鋭部隊である。
兵馬俑は始皇帝率いる最強軍団の姿を今に伝えていた。
そもそも、秦の民族は兵馬俑のある西安から西へ400kmほどに位置する甘粛省(かんしゅくしょう)・天水に住む遊牧民であったといわれている。
標高1,500mの山間に秦の発祥の地といわれる「秦亭村(しんていむら)」があり、今でも馬の生産や飼育が行われていた。
若き王の試練
※始皇帝
秦が誕生した「春秋時代」、文明の中心は黄河中流域の平原にあった。
紀元前4世紀の戦国時代、その黄河中流域から西に外れた秦は、「七雄」と呼ばれる国々の中で、もっとも遅れていた。そして、紀元前259年、始皇帝は秦の王族の子として誕生する。
紀元前247年、始皇帝は13歳で秦の王に即位、若き国王の誕生である。
この時代、中国は鉄の農機具が出現し、農業生産力が飛躍的に向上、経済も発展し、国を超えた交易が行われるようになっていた。さらに人の交流も活発になり、新たな時代を迎えていたのである。
西安の北西40kmに位置する「咸陽(かんよう)」は、紀元前4世紀から秦の都が置かれ、壮麗な宮殿が建てられていた。しかし、宮殿内の実権は若き国王のものではなく、宰相「呂不韋(りょふい)」が握っていた。始皇帝が権力を手中に収めるには邪魔な存在である。
始皇帝が22歳のとき、母が愛人との間に子供をもうけたことが発覚し、始皇帝は愛人と子供を処刑した上で、母親の不義を知りながら報告を怠ったとして、呂不韋を罷免。
この事件を切っ掛けに始皇帝が秦の実権を握ることが出来たのである。
最強軍団の創設
27歳のとき、始皇帝は思想家「韓非(かんぴ)」と出会い、その思想に大きく傾倒するようになる。
韓非は「君主の患いは人を信じることから始まる」として、人を信じることなく、客観的な視点を忘れぬように説いていた。そのためには「君主 ただ法に則り行動すべし」と、強固な法体系と厳罰化を推進させ、秦国内の結束を強めた。
さらに、始皇帝は他国の文化や制度を取り入れ、能力があれば異国人でも登用するという柔軟な考えも持ち合わせていた。戦で勲功を挙げれば身分に関係なく昇進させるという実力主義が、秦の軍事力を高め、王に対する忠誠心も強めていたのである。
兵馬俑に収められた兵士にも様々な民族の身体的特徴が再現されており、なかには北方の遊牧民「匈奴(きょうど)」の姿もあった。
しかし、最強の軍を作り、いざ大陸制覇へというとき、始皇帝に重大な事件が起こる。
東国の脅威
【※紀元前260年の戦国七雄】
紀元前230年、隣国の「韓(かん)」を攻め滅ぼした秦は、その2年後に北の大国「趙(ちょう)」もその支配下に収めた。
征服後、始皇帝は自国の制度をすぐに新たな領地にも導入し、同じ制度のもとで支配することにより、合理的な統治を行うようになる。貨幣も東方の国々ではそれぞれが異なっていたため、秦が統一貨幣である「半両銭(はんりょうせん)」を導入、
これが後世における統一貨幣の原型となってゆく。
【※半両銭】
一方で北方の「燕(えん)」は、趙の滅亡により秦と国境を接することになり、脅威を覚えた燕は、秦に暗殺者を送り込んだのである。暗殺者の名は「荊軻(けいか)」。
荊軻は、燕の土地を秦に献上するといって秦の宮廷に入り込み、始皇帝の前で地図が描かれた巻物を広げる。しかし、最後に巻物から現れたのは刃物であった。
攻防の末、始皇帝は自ら荊軻を斬りつけることで難を逃れることとなる。
この暗殺未遂事件は、秦に燕と戦う大義名分を与え、翌年、秦が燕の都を攻略した。
中国初の統一国家 秦 誕生
中国南部の湖南省、近年ここで秦の時代を知る37,000点もの文書が発見された。
木簡などの文書は、その多くが中央との連絡が記されており、秦が領土を拡大しつつ、いかに緻密な統治を行っていたのかを物語っている。記録に残すことで、地方と中央で情報の誤差を抑えていたのだ。
燕を滅ぼした秦は、残る4ヶ国に怒涛のような攻略を仕掛けていった。南方の大国「楚(そ)」に対しては、将軍・王翦(おうせん)に秦の全兵力に近い60万もの兵を預け、紀元前223年、楚は始皇帝の期待に応えた王翦により滅亡する。
そして、紀元前221年、最後の一国である「斉(さい)」を滅ぼし、秦は中国統一を果たした。群雄割拠の春秋時代は終焉を迎え、秦のもとで初めて中国は強大な統一国家となったのだ。
始皇帝本人も、それまでは「政(せい)」と名乗っていたが、この新王国に相応しい名前を考えていた。
それこそが「光り輝く天下の統治者」を意味する「皇帝」であり、その始まりである政は「始皇帝」となったのだ。
中国発の皇帝の誕生であった。その後も始皇帝は道路網の建設、中央集権のための郡県制の制定など、さらに様々な統一政策を推し進め、文字や度量衡の統一により、秦の支配は急速にまとまっていったのである。
最後に
秦による中国統一により、中国統一が不可能ではないとわかっていたからこそ、後の三国時代でも「中国はひとつ」という考えの下で各国は戦えた。非情な印象のある始皇帝の振舞いや考えは、ここまではすべて計算されたものであり、それが合理的な統治を生み出したのである。
そして、秦は英語では「CHINE」と書き、これが「CHINA(チャイナ)」の語源となり今も残っているのだ。
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すいません。楚が滅亡した年って紀元前233年ではなくて紀元前223年かと…
ご指摘ありがとうございます。
修正させていただきましたm(_ _)m