考古学の世界で20世紀最大の発見といわれる「兵馬俑(へいばよう)」は、発見から40年以上たった今もなお調査が続いている。
日本では2015年10月から「始皇帝と大兵馬俑展」が東京・福岡・大阪で開催され、大盛況を博した。
そして、現在も終わりの見えない調査が行われている。
突然の出土
「俑」とは墳墓に埋葬された素焼きの人形のことで、被葬者の死後の生活に備えてつくられた。「兵馬俑」とは文字通り、兵だけでなく、馬をかたどった俑も指す。なかでも有名なのが、陝西省西安市にある秦の始皇帝の兵馬俑抗である。
1974年3月、井戸を掘っていた地元の農民が、兵馬俑の破片を偶然掘り当てた。その後、中国政府の発掘作業で東西230m、南北60mに及ぶ「兵馬俑抗1号抗」の全貌が明らかになる。
発掘された兵馬俑は6,000体に及び、大々的に報じられた。俑の種類には歩兵、将軍、立射(弓兵)、軍吏(軍師)などがある。
【※兵馬俑一号坑のパノラマ写真】
始皇帝陵の兵馬俑抗は4つの地下抗からなり、1号抗には歩兵や戦車部隊などが配されている。2号抗は1号抗の東端北側にあり、1976年4月に発見された。東西84m、南北96mの坑内に900体以上の跪射俑(きしゃよう/膝を着いた弓兵)、立射俑、騎兵俑、歩兵俑と、472頭の馬俑があるとされている。
多民族国家「秦」
3号抗は1号抗の西端北側にあり、1976年5月に発見された。
抗の規模は南北21m、東西18mと小規模だが、中心には全軍の指揮官が乗る戦車があり、軍と統率する司令部を再現したものと見られる。そして、4号抗は未完成の抗で中にはなにもない。
兵馬俑抗では現在までに約8,000体の俑が確認されているが、その顔だちはすべて異なる。
そのため、実在の将兵をモデルとしてつくったと考えられ、民族による身体的特徴まで再現されている。顔立ちは鼻が高くて唇が厚い「西方顔」と、鼻が小さくて顎が細い「東方顔」の2系統を中心として、北方の遊牧民像であり、秦と戦った「匈奴(きょうど)」の姿もあった。秦が各国・各民族の出身者を混在させた統一王朝であったことをうかがわせる。
【※彩色された兵士】
現在は色が剥げているが、当初はそれぞれの俑が塗装されていた。また、出土した俑はすべて東を向いているが、これは秦の東にあった旧六国(燕・斉・趙・魏・韓・楚)に備えてのことだったと考えられている。中国統一後も、旧六国の国民が秦朝に対して必ずしも従順ではなかったということだ。
完成することがなかった始皇帝陵
多数の俑がつくられた理由は諸説あるが、確定には至っていない。「礼記(らいき)」や「孟子(もうし)」には「人形を墓に埋めるようになったのを機に殉死が生じ始めた」という記述もあり「殉教者の代りに埋葬された」という仮説にも疑問の余地がある。
兵馬俑抗の発見によって秦代の衣服や武装、馬具などの様相が分かったが、兵馬俑抗の西方約1.5kmにある始皇帝陵でも発掘調査は行われている。始皇帝陵は、始皇帝が13歳で秦王に即位してから工事が進められ、70万人の労働力と40年近くの歳月を費やして築かれた。陵の規模は高さ53m、2万平方メートル以上あるが、始皇帝は完成を見届けることなく最後の巡行中に崩御し、陵墓も最終的な完成はしなかった。
陵の大部分は謎に包まれているが、最新の科学調査によって、墳丘の地下に巨大な墓室と地下宮殿があることが明らかになっている。
水銀こそ不老不死の証拠
墳丘近くの抗からは銅車馬が発見されているが、兵馬俑の体格が等身大なのに対し、そのサイズは1/2のスケールとなっており、これについて学習院大学の鶴間和幸教授は「始皇帝の魂を乗せるものなので、等身大である必要はなかった」と推測している。
また、中国の歴史書「史記」には「地下宮殿には水銀を用いて再現した川や海があった」という記述があるが、その存在は長年疑問視されてきた。だが、科学調査によって土壌の水銀含有量が異常に高いことが判明し、実在の可能性が高まっている。今では有毒として知られているが、秦の時代の水銀は「不老長寿の薬の原料」として考えられており、死を恐れていた始皇帝が用いた可能性は十分にある。
【※銅車馬】
地下の楽園
始皇帝の墳墓は地下宮殿の中央にあり、その遺体は当時の最高技術を駆使して永久保存したといわれている。始皇帝が自らの遺体を永久保存させたのは、やはり不老不死に対するこだわりだろう。晩年は様々な方術を駆使し、長生きすることにこだわった。地下に広大な宮殿と陵園を築いて膨大な兵馬俑を作らせたのも、没後に黄泉の世界を制覇する狙いがあったといわれる。
他にも、近年の発掘では始皇帝陵のすぐ近くで新たな発見があった。青銅製の鶴、雁や白鳥といった水鳥が発見されたのだ。
これにより、陵墓の中には庭園まで作られていることがわかった。楽士俑は、両足を前に伸ばして座り、何かの楽器を奏でているように見えることから、水鳥たちがなつくようにするためではないかと考えられている。
始皇帝は軍隊だけでなく、楽園をも地下に築いていたのだ。
兵馬俑 発掘調査
陵墓は始皇帝の死後、秦に反旗を翻した反乱軍のリーダーの一人である「項羽(こうう)」によって暴かれたと伝えられている。
だが、盗掘に遭った記録はなく、また発掘調査がすべての部分に行きわたっているわけでもない。なにしろ、死した皇帝を守る「地下の軍団」兵馬俑だが、8,000体と推測されている俑は、まだ全体の20%が発掘されたに過ぎないといわれているからだ。
そのため、今後も始皇帝に関する新発見が飛び出す可能性は大いにある。
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