中国史

毛沢東 〜中華統一の英雄にして最悪の独裁者

毛沢東

※毛沢東の公式の肖像画

今でも中国大陸を支配している中華人民共和国

しかし、この国は第二次世界大戦以前は延安に少しの領土を持っていたに過ぎなかった。そんな状況を打破して1948年に中華民国を台湾に追い出し中国大陸を統一したのがかの有名な毛沢東(もうたくとう)である。

ここでは毛沢東が中華人民共和国を握るまでの生涯と彼が犯してしまった政治失策について取り上げようと思う。

毛沢東の生い立ち

毛沢東は1893年湖南省の裕福な農家に生まれた。彼は子供の頃から儒教の古書や四大奇書に触れ、その知識を吸収するほどであったらしい。

そんな毛沢東はその知識を活かし、湖南省立第一師範学校を卒業。25歳の時に北京大学の図書員となり働き始めた。彼としたら大好きな本に触れる機会だったと思うが、毛沢東はそこで共産主義に出会い、そして感化されるようになった。

毛沢東はその後故郷にて教師兼出版者となり生活を送るようになった。

革命者としての毛沢東

1921年、毛沢東は上海で開催された中国共産党の結党大会に参加。今でこそ中国共産党の党員数は約8900万人だが、この頃はわずか57人しか党員がいなかった。

※孫文

その頃の中国共産党は国共合作という最終的に対立する国民党と協力する立場で、毛沢東自身も国民党の機関紙で社説を担当したりしていたが、国民党の創立者である孫文(そんぶん)が亡くなると後を継いだ蒋介石(しょうかいせき)は上海クーデターという中国共産党の弾圧を行い、一気に対立。第一次国共内戦が起こった。

※蒋介石

毛沢東は生まれ故郷の湖南省の紅軍を結成。湖南省と江西省の境にある井崗山にこもり革命を指導した。

その後、中国共産党が瑞金で中華ソビエト共和国を建国すると毛沢東はその中央執行委員会主席に就任した。しかし、この頃の中国共産党はソビエト連邦の影響を受けた人が多かったこともあり一時失脚。一応の地位にはいたものの、実権を持つことはなかった。

ちなみに、余談だが毛沢東は屈指の風呂嫌いであり、生涯で一度も歯を磨くことはなかったそうだったとか。さすがに心配した医師が歯磨きを進めて歯ブラシを渡すと、「虎だって歯磨きをしない」と言って拒否したそうである。

長征、そして日中戦争

瑞金に建国したものの、国民党の攻撃は続いたままであった。そして1934年、中国共産党は瑞金を放棄して西へと敗走。いわゆる長征の開始である。

毛沢東は長征の最中に開かれた遵義会議にて、長征する原因を作ったのは指導者のせいとしてこれまで敵対していた指導者を失脚させ、中国共産党の最高指導者としての地位を確立した。そして毛沢東は1936年に延安を本拠地として革命を進めることになるが、その5日後に西安事件が起き、再び国民党と手を結ぶことになる。

そして1937年7月中国を揺るがす一大戦争が起きた。日中戦争の始まりだ。毛沢東は八路軍と改称された軍を率いて国民党とともに抗日民族統一戦線を結成し、日本と戦うことになるのだが、毛沢東は日本と戦うどころか日本と交流を図り中国での影響力を増大した。まさしく日和見である。

第二次国共内戦と中華人民共和国の建国

※天安門で建国宣言をする毛沢東

日本が降伏する寸前だった1945年、毛沢東は第7回党大会において国民党との対立を深めていくことになっていく。

そして1946年に蒋介石が国民党軍に共産党の領地に侵攻を命令すると第二次国共合作は崩壊。再び国共内戦が再び始まった。毛沢東はこの国共内戦の時に農民に対して土地の解放を宣言。農民の支持を獲得し、ゲリラ戦を展開した。

共産党軍は最初の頃こそ劣勢だったが、ソ連の援助や三大戦役における決定的勝利において形勢を逆転させ、首都南京や上海を占領すると毛沢東は1949年北京において高らかに中華人民共和国の建国を宣言。その後最後の国民党の拠点であった重慶と成都を落とすと蒋介石は台湾に逃亡。

中国大陸から国民党勢力を駆逐してさらに新疆やチベットも支配し、1950年中国共産党はついに念願の中華統一を成し遂げたのである。

大躍進政策と巻き起こる文化大革命

※毛沢東語録を掲げる紅衛兵 一説には文化大革命の時に4000万人が犠牲となった

こうして毛沢東は中国の最高指導者として君臨することになったが、毛沢東は軍事能力はずば抜けて優秀であったが、政治の能力はからっきしであった。毛沢東はスターリンの五カ年計画を参考にしてイギリスを追い越そうとする大躍進政策を行うが、そのずさんな計画と無謀なノルマに国民は耐えられず、さらに毛沢東は雀は害鳥だから駆除しなさいという命令を出し、それが原因で一大凶作が起こると農作物の生産量が大暴落。一説には4000万人レベルの餓死者を出してしまい、毛沢東は政治から身を引かなければいけなくなってしまった。その後 毛沢東は優秀な政治家であった劉少奇に託して引退する。

しかし、毛沢東の側近であった林彪(りんぴょう)が1964年に『毛沢東語録』を出版すると毛沢東は権力奪取を目論むようになる。毛沢東は過激になっていいた学生運動を行っていた紅衛兵を利用して造反有理を理由にこの運動を支持。劉少奇を修正主義者として批判。文化大革命の幕が上がったのである。

この運動によって劉少奇と同じく権力を握っていた鄧小平は失脚。劉少奇を軟禁に追い込んだ。こうして再び権力を握った毛沢東は林彪や妻であった江青(こうせい)を中心に新しい国家を建設していくことになる。

※毛沢東の妻 江青

しかし、文化大革命の動きは毛沢東の予想をはるかに超え、内乱一歩手前の状態になるまでになる有様になってしまった。その後毛沢東は1976年に国を荒らした独裁者としてこの世を去った。

毛沢東から学ぶべき点

毛沢東は無謀ともいえる長征を成し遂げ、分裂状態であった中国を統一した英雄としての面と、大躍進政策で中国の経済を大混乱に追い込み、さらに文化大革命を引き起こした独裁者としての面を併せ持った人だった。

ちなみに悪いものを見て自分の行動を見直すという意味の四字熟語である反面教師は彼が生み出したものだったのだが、毛沢東こそこの反面教師という言葉が一番ふさわしい人物だったと私は思う。

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