一般的に、隋 王朝(ずい:581年〜618年)はわずか2代で滅びたと言われます。
しかし、実は2代皇帝・煬帝(ようてい)の後にも隋の王族が3人、皇帝に即位しています。
後の権力者(=唐の皇帝)の意向が反映され、彼らは不都合な存在としてあまり語られることはありませんでした。
歴史に埋もれた3人のラストエンペラーについて調べてみました。
3人のラストエンペラー
煬帝治世の末期、王朝への反乱の高まりで国中が混乱し、地方各地で反隋を掲げる新勢力が誕生していました。
それぞれの勢力は、拠点としている都市で都合の良い王族を勝手に擁立します。
その結果、長安、洛陽、江都の3都市で、3人もの皇帝が並び立つ事態になりました。
「長安の皇帝」の即位
長安で即位したのは、「恭帝 侑」(きょうていゆう:605年〜619年)です。
侑は、皇太子だった楊昭の第3子で、煬帝の孫にあたります(楊昭は、侑が生まれて間もなくに亡くなっています)。
617年、煬帝の従兄・李淵(後の唐の高祖)が、出兵からわずか半年足らずで首都の長安を陥とし、占拠します。皇帝の煬帝は、王朝討伐の機運が高まって間もなく江都へ逃げており、城には守備を任されていた侑が残っていました。
李淵側には、帝位の「簒奪」だけは避けたいとの思惑がありました。そのため、煬帝を退位させたことにして、侑を新たな皇帝として擁立します。
侑は、長安の王宮で3代皇帝として即位することとなりました。しかし、皇帝といっても李淵が正式に帝位に就くまでの繋ぎに過ぎず、国政は李淵が担っていました。
「長安の皇帝」の最期
翌年の3月、煬帝が逃亡先で護衛に殺害されます。
それから2か月後、長安に煬帝死亡の知らせが入ると、侑は李淵から帝位の「禅譲」を迫られます。侑には反抗する手立ては無く、従う他ありませんでした。
李淵は皇帝となり、新たに「唐」を建国。侑は唐の臣下に格下げられました。
禅譲の翌年、侑は死去します。病死とも、李淵の息子・李世民(後の唐の太宗)に殺害されたとも言われます。享年15歳(満14歳)でした。
「洛陽の皇帝」の即位
洛陽で即位したのは、「恭帝 侗」(きょうていとう:604年〜619年)です。
侗は、楊昭の第2子で、長安で即位した侑の異母兄です。侑と同じく煬帝の孫にあたります。
617年、侗は洛陽の行政と守備にあたります。当時の洛陽は政治経済の要所でしたので、朝廷を束ねていた「七貴」と呼ばれる7人の重臣たちも、首都の長安ではなく洛陽にいました。
翌年の3月、煬帝が逃亡先で護衛に殺害されます。
それから3か月後、侗は七貴に擁立されて、洛陽で4代皇帝として即位します。
「洛陽の皇帝」の最期
当時「七貴」は今後の方針を巡って対立しており、その仲は険悪でした。七貴の一人王世充は他のメンバーを排除して、実権を握るとついに行動に出ます。
即位から僅か一年足らず、侗は味方であったはずの王世充から「禅譲」を要求されます。実は、王世充は密かに自身の王朝の建国を画策していたのでした。
王世充は皇帝に即位し、新たに「鄭」を建国。侗は鄭の家臣とされますが、実際は含涼殿に幽閉され、死を命じられるのを待っている状態でした。
退位から間もなく、侗は毒での自死を命じられます。死は免れられぬと悟り、母に一目会いたいと望みますが、許しは出ませんでした。
「もう王家には生まれたくない」と遺言し、毒酒を飲みます。毒の効きが悪かったのか、そのまま死ぬことが出来ず、最後は兵士によって首を絞められました。享年16歳(満15歳)でした。
「江都の皇帝」の即位
江都で即位したのは、「秦王 浩」(586年?〜618年)です。
浩は、煬帝の弟・楊俊の長男で、煬帝の甥にあたります。
反乱の機運が高まり続ける中、事態を重く見た煬帝は行幸と称し船で江都へ逃れ、反乱鎮圧を図ります。ところが、逃亡先を南方の江都に選んでしまったことで、北方への支配力は弱まり、反乱は激化の一途を辿ります。
江都へ付き従った兵士は西北出身者が多く、一刻も早い帰還を求めていました。対して煬帝は、反乱情勢に阻まれたことから、離宮で酒色に溺れるようになり、臣下の言葉に耳を傾けることも無くなってしまいます。
618年3月、武将の宇文化及・宇文智及兄弟が禁軍を率いて煬帝を弑逆。さらに、江都宮にいた隋朝の宗室、外戚たちも年齢を問わず殺害します。
そんな中、浩は宇文智及と密接な交流があったため、王族の男子でありながら生き残りました。
同月、宇文化及は大丞相を名乗り、皇后の命を受けて浩を皇帝に立てました。浩は傀儡に過ぎず、実権は宇文化及にありました。
「江都の皇帝」の最期
ほどなくして、宇文化及は10万の兵を率いて長安を目指します。進軍には浩も同行しました。
しかし、宇文化及率いる軍は、洛陽の王世充らの勢力に阻まれ敗北。生き残った兵と共に魏県(現在の大名県南西部)へ撤退します。逃亡の最中、兵の脱走が相次ぎ、最終的に残った兵数は2万を下回っていました。
追い詰められた宇文化及は「どうせ死ぬならば、たとえ一日でも皇帝になりたい」と考えます。
浩の即位から僅か半年、宇文化及は人を派遣し浩を毒殺し、自ら皇帝を名乗ります。そのまま魏県を拠点として、新たに「許」を建国しました。
おわりに
3人に共通していることは、「期せずして皇帝となった」ことです。
もともとは、3人とも帝位につけるかは微妙な立ち位置でした。
浩は皇帝の甥で傍系ですし、王位継承権を剥奪されていた過去もあります。侑と侗には兄の倓がおり、倓は煬帝が最も愛した孫でした(倓は逃亡先の江都にも随行しています)。順調にいけば、直系で皇帝の寵愛を受ける倓が次の皇帝となっていたでしょう。
ただ、彼らは皇帝とは名ばかりで、最初から最後まで何の権限も持たず、自分の生死すらままならず、しかも王朝滅亡の混乱期であったが故に、在位期間も非常に短いものでした。
彼らにしてみれば、皇帝という名の貧乏クジを引かされたといったところでしょうか。
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