漢(かん)王朝と言えば高祖・劉邦(りゅう ほう)が興し、一度は断絶するもののやがて復活。その後、魏(ぎ)王朝への禅譲(政権移譲)によって約400年の歴史に幕を下ろしたことで知られます。
それを憂えた劉備(りゅう び)が皇帝に即位して漢(蜀漢)王朝を再び復活させたものの、その嫡男・劉禅(りゅう ぜん)が魏に降伏。今度こそ漢王朝は滅亡したのでした。
しかし、これで中国の歴史から漢王朝が絶えてしまった訳ではなく、その後も「漢」を称する後継国家が次々と出現。
そこで今回は、現代中国人(そのほとんどが漢族)のアイデンティティにもつながっている歴代の漢王朝についてごくざっくり紹介したいと思います。
目次
初代 漢(別名:前漢、西漢)
【建国】高祖元年(紀元前206年)
【滅亡】初始元年(西暦8年)
【皇帝】15代(※劉嬰を含む)
【初代】劉邦(りゅう ほう。太祖)
【末代】劉嬰(りゅう えい。即位せず)
【首都】長安(現:陝西省)
【領域】中国の大部分
【概説】
秦(しん)王朝の滅亡後、項羽(こう う)と天下を二分して争った劉邦が勝利して建国。シルクロードの東半分を占める大版図を誇ったものの、最後は家臣の王莽(おう もう)に滅ぼされてしまいました。
2代目 漢(別名:後漢、東漢)
【建国】建武元年(西暦25年)
【滅亡】延康元年(西暦220年)
【皇帝】14代
【初代】劉秀(りゅう しゅう。光武帝)
【末代】劉協(りゅう きょう。献帝)
【首都】洛陽(現:河南省)など
【領域】前漢と概ね同じ
【概説】
王莽が樹立した新(しん)王朝を滅ぼして建国。前漢に対して後漢、あるいは首都・洛陽の位置が長安より東なので東漢とも呼ばれます。
最後は曹丕(そう ひ。曹操の嫡男)に国を譲らされ、滅亡してしまったのでした。
3代目 漢(別名:蜀漢)
【建国】章武元年(221年)
【滅亡】炎興元年(263年)
【皇帝】2代
【初代】劉備(りゅう び。昭烈皇帝)
【末代】劉禅(りゅう ぜん。思公)
【首都】成都(現:四川省)
【領域】四川省一帯
【概説】
後漢王朝の滅亡により、漢の王統を受け継ぐため劉備が建国。『三国志』物語のハイライトとして諸葛亮(しょかつ りょう)や姜維(きょう い)らが数十年にわたって奮闘するも、劉禅が魏に降伏、あえなく滅亡してしまいます。
4代目 漢(別名:漢趙、前趙)
【建国】元熙元年(304年)
【滅亡】光初12年(329年)
【皇帝】6代
【初代】劉淵(りゅう えん。光文皇帝)
【末代】劉煕(りゅう き。末主)
【首都】左国城(現:山西省)など
【領域】山東省~陝西省の一帯
【概説】
北方の騎馬民族・匈奴(きょうど)の出身である劉淵が中原の動乱に乗じて独立。前漢と後漢、そして蜀漢の後継者と自称しました。
第5代・劉曜(りゅう よう)の時代に国号を趙(ちょう)と改め、後に入れ替わる趙(石趙)と区別するため前趙とも呼ばれます。
5代目 漢(別名:成漢、後蜀)
【建国】建興元年(304年)
【滅亡】嘉寧2年(347年)
【皇帝】5代
【初代】李雄(り ゆう。武帝)
【末代】李勢(り せい。帰義侯)
【首都】成都
【領域】四川省一帯
【概説】
漢趙と同時期の建国であり、厳密には4代目タイ。初めて劉姓以外の者によって樹立された巴氐(はてい)族の王朝です。
最初は国号を「大成」とするも、後に自らを劉備に準(なぞら)えたか「漢」と改め、歴史的には「後蜀」「成漢」とも呼ばれます。
6代目 漢(侯景政権)
【建国】太始元年(551年)
【滅亡】太始2年(552年)
【皇帝】侯景(こう けい)1代
【首都】建康(現:江蘇省)
【領域】江南(長江下流域)一帯
【概説】
侯景は南北朝時代の武将で、仕えていた南朝・梁(りょう)王朝に叛旗を翻して皇帝を殺し、自ら帝位につくが、梁の皇族らの反撃に敗れ去りました。
漢民族でもなければ(鮮卑族系など諸説あり)劉姓でもなく、そして前後漢および蜀漢ともゆかりの薄い土地での樹立は、支持を集めにくかったようです。
7代目 漢(朱泚政権)
【建国】天皇(てんこう)元年(783年)
【滅亡】天皇2年(784年)
【皇帝】朱泚(しゅ せい)1代
【首都】長安
【領域】長安周辺
【概説】
唐(とう)王朝に叛旗を翻して独立。当初は国号を大秦としたが、天皇2年(784年)に改称。
秦よりも、それを滅ぼした漢の方が人々の支持を得られると思ったようですが、やはり(前漢の都であった)長安を支配しているというだけでは、ちょっと物足りなかったようです。
8代目 漢(別名:後漢)
【建国】天福12年(947年)
【滅亡】乾祐3年(950年)
【皇帝】2代
【初代】劉知遠(りゅう ちえん。高祖)
【末代】劉承祐(りゅう しょうゆう。隠帝)
【首都】開封(現:河南省)
【領域】中原(黄河流域)
【概説】
仕えていた晋(後晋)王朝が北方の契丹(きったん)族に滅ぼされた空白を狙って独立。劉姓なので漢と称したが、自身は突厥(とつけつ。テュルク系)族出身。
中原の覇者を夢見るも、勢力基盤を固める前に劉知遠が病没、態勢が整わないまま2代で滅んでしまいました。
9代目 漢(別名:南漢)
【建国】乾亨元年(917年)
【滅亡】大宝14年(971年)
【皇帝】4代
【初代】劉龑(りゅう げん。高祖)
【末代】劉鋹(りゅう ちょう。)
【首都】興王府(現:広東省)
【領域】中国南岸一帯~ベトナム北部および海南島
【概説】
独立当初はベトナム地方を意味する大越を国号としていましたが、劉姓であることから漢と改称。でも、この劉家はアラブ系(交易商人の末裔?)との説もあるようです。
中国大陸の南に位置しているのが特徴で、歴史的には南漢とも呼ばれます。
10代目 漢(別名:大漢、陳漢)
【建国】大義元年(1360年)
【滅亡】徳寿2年(1364年)
【皇帝】2代
【初代】陳友諒(ちん ゆうりょう。高祖)
【末代】陳理(ちん り。帰徳侯)
【首都】武昌(現:湖北省)
【領域】湖北省から江西省一帯
【概説】
元(げん)王朝末期「紅巾の乱」に乗じて頭角を現し、下剋上の末に独立。
大水軍を率いて朱元璋(しゅ げんしょう。明王朝の祖)に挑むも火攻めに敗退、これが『三国志演義』のハイライト「赤壁の戦い」の描写モデルとなっています。
11代目 漢(劉通政権)
【建国】徳勝元年(1465年)
【滅亡】徳勝2年(1466年)
【皇帝】劉通(りゅう つう)1代
【首都】房県?(現:湖北省)
【領域】不明(湖北省の一部)
【概説】
明(みん)王朝の中期に大量発生した難民たちをまとめて叛乱を惹き起こし、散々暴れ回ったものの、討伐されてしまいました。
厳密には皇帝ではなく王(漢王)ですが、漢王朝の末裔である劉姓を恃みに身一つから立ち上がり、王を経て皇帝に昇り詰めた劉備のようなストーリーを思い描いていたのかも知れません。
終わりに
歴代の漢王朝について調べてみて、とりあえず漢王朝の正統性を構成する要素として
(1)劉姓≒劉邦の末裔であること
(2)漢民族であること
(3)漢王朝(~蜀漢時代まで)にゆかりの深い土地を治めること
があるように思えましたが、時代が下るにつれてどんどん曖昧になり、どうして漢を名乗ったのかわからなくなってしまった印象です。
劉通を最後に「漢」を称する王朝は出現しておらず、やがて明王朝の後に清(しん)王朝も滅亡して以降は王朝制度そのものがなくなってしまいました。
それでも、蜀漢が滅んでから千年以上も漢王朝の復興が叫ばれ続けていた歴史を振り返ると、その偉大な影響力に感じ入るばかりです。
そして現在、漢王朝の末裔とされる漢民族(漢族)は中国の90%以上、世界全体でも人類の約20%を占める繁栄を見せています。
真偽のほどはともかくとして、彼らがみんな最初に漢王朝を興した劉邦の末裔だと思うと、そのスケール感にワクワクしますね!
この記事へのコメントはありません。