天安門事件とは
天安門事件とは、中華人民共和国北京市の天安門広場で起こった事件の総称である。
二度の大規模な衝突のほか複数の事件があるが、通常単に「天安門事件」と称する場合は第二次天安門事件を指す。
1989年6月4日、天安門広場に民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、軍隊が武力行使し、多数の死傷者を出した。
民主化を求めるデモは改革派だった胡耀邦(こようほう)元総書記の死がきっかけとなった。彼の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に約10万人の人々が天安門広場に集まったのである。
今回は天安門事件について、3回に分けて解説していく。
民主化を求める声
ソビエトでは、共産党による一党独裁制が続く中で言論の自由への弾圧や思想・良心の自由が阻害されたことや、官僚による腐敗が進みんでいた。しかし1985年3月にソビエト連邦共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが硬直化した国家運営を立て直すために「ペレストロイカ」を表明して、同国の民主化を進めていった。
同じく1949年の建国以来、中国共産党の一党独裁下にあった中華人民共和国でも、胡耀邦が言論の自由化を推進した。
胡は国民から「開明の指導者」と呼ばれ、政治革命への期待や支持が高まった。
これに対して、鄧小平ら保守派は自分たちの地位や権利を損なうものとして反発した。
1986年9月に行われた六中全会では、国民の支持を受けて胡が推し進めようとしていた決議は棚上げされて、逆に保守派主導の「精神文明決議」が採択され、胡は保守派の批判の矢面にさらされた。
12月に北京他地方都市で学生デモが発生すると対立は激化し、胡は1987年1月16日の政治局拡大会議で保守派によって辞任を強要され、事実上失脚した。
胡は失脚後も政治局委員の地位に留まったが、北京市内の自宅で警察の監視のもと外部との接触を断たれるなど事実上の軟禁生活を送り、1989年4月8日の政治局会議に出席中、心筋伷塞で倒れ、4月15日に死去した。
高まる民主化
胡が中国民主化に積極的であったことから、翌16日には中国政法大学を中心とした民主化推進派の学生達による胡の追悼集会が行われた。
これを契機として同日と17日に、同じく民主化推進派の大学生を中心とした一万人程度のグループが北京市内で民主化を求めた集会を行った。
翌19日には北京市党委員会の機関紙である「北京日報」がこの出来事を批判的に報じたが、4月21日の夜には10万人を越す学生や市民が天安門広場で民主化を求めるデモを行うなど、急激に規模は拡大していった。
全国に広がる民主化の声
学生を中心とした民主化や汚職打倒を求めるデモは西安や長沙、南京などの一部の地方都市まで広がっていった。
西安では車両や商店への放火が、武漢では警察隊と学生との衝突が発生した。
その頃、民主化推進派の趙紫陽(ちょうしよう)が、北朝鮮への訪問前に「胡氏の追悼式は終わったので学生デモを終わらせる。すぐに授業に戻し、暴力、破壊行為には厳しく対応し、学生達と各階層で対話を行う」とする3項目意見を提示した。しかし趙が出国してすぐ、北京市党委書記、保守派は事実を誇張した報告を受け、「人民日報」には「徹底抗戦に出る」という内容が掲載された。
社説では、胡の追悼を機に全国で起こっている学生たちの活動は「少数の人間が下心を持つ」「学生を利用して混乱を作り出す」「党と国家指導者を攻撃する」「公然と憲法に違反し、共産党の指導と社会主義制度に反対する」と位置づけられ、ますます対立が激しくなった。
共産党の動き
中国共産党は、人民日報や国営テレビなどのメディアを使って事態を沈静化するように国民に呼びかけた。だがこれは逆効果となり活動はさらに拡大を見せ、中国共産党は学生だけでなくジャーナリストの反感も買った。
その後、保守派の幹部は高校生と会見した。
会見した袁木国務院報道官は党内に腐敗があることを認めたものの「大多数の党幹部は素晴らしい」と述べ「検閲制度などない」と否定し「デモは一部の黒幕に操られている」と批判を続けた。
この模様が夜に放送されると、学生は抗議デモに繰り出した。
デモの拡大
趙紫陽は4月30日に帰国し、5月3日の式典では学生の改革要求を「愛国的」であると評価し、穏健戦略を打ち出した。党内部でも学生運動終息に期待が持たれ、評価はまずまずだった。
幾人かの保守派も歩み寄りを見せたが、5月13日から始まった学生たちによるハンガーストライキ(公の場所で断食し抗議する活動)が、事態を悪化させることとなった。
この頃には、全土から天安門広場に集まる学生や労働者のデモ隊の数は50万人近くになり、公安による規制は効かなくなり、天安門広場は次第に市民が意見を自由に発表できる場所へと変貌していったのである。
天安門事件とはどのような事件だったのか? ② 「穏健派、趙紫陽の更迭」
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