「この部屋から出るためには、その女性とまぐわいなさい……」
たまにエロ漫画で見かける「性交しないと出られない部屋」という設定。
別に相思相愛でもないのに、仕方なく二人は……なんて、そんなしょうもない?ストーリー作品を読んだことがありますが、事実は小説よりも何とやら、実際そんな目に遭った人物がいるようです。
そんなうらやま……もとい、けしからん人物とは鳩摩羅什(くまらじゅう)。何かどこか(例えば教科書の片隅など)で見たような名前ですが、何をした人なのかは今一つ分からない彼ですが、いつ、どこでどんな功績を上げたのでしょうか。
よもやエロエピソードだけで歴史に名を残したなんてことはないでしょうし……今回はそんな鳩摩羅什の生涯をたどってみたいと思います。
仏教界のエリート街道を邁進
鳩摩羅什は西暦350年、現在の新疆ウイグル自治区クチャ市に当たる中央アジアのオアシス国家・亀茲(きじ)国で生まれました。
父はインド・カシミールの名門貴族である鳩摩羅炎(クマ―ラヤーナ)、母は亀茲国の王族である耆婆(ジーヴァー)、恐らくは鳩摩羅炎が婿入りしてきたのでしょう。
ちなみに漢字表記は古代中国王朝による当て字で、当人たちはサンスクリット語の名前を用いていました。鳩摩羅什はクマーラジーヴァ(कुमारजीव)となります。
母は熱心な仏教徒で鳩摩羅什が満6歳となる356年に母子で出家、10代を父の故郷であり、かつ仏学の中心地であったカシミール地方で遊学に費やしました。
ここで鳩摩羅什は仏教の経典を猛勉強し、12歳にはカシュガル(現:新疆ウイグル自治区)で講義を行うほどに成長。369年には受具(じゅぐ。衣鉢を授かり一人前の僧侶となる)し、須利耶蘇摩(スーリソヤーマ)との出会いによって大乗仏教に転向します。
ごくざっくり言えば、修行者自身が救われるために難解な哲学を修めねばならなかった従来の仏教(小乗仏教)のに対して、社会全体を救済するシンプルな教えの実践が大乗仏教と言ったイメージでとらえればいいでしょう。
学僧として着実にキャリアを築き上げていった鳩摩羅什でしたが、383年に前秦(ぜんしん)王朝の将軍・呂光(りょ こう)が亀茲国へ侵攻しました。
亀茲国王の白純(はく じゅん)は獪胡王(かいこおう。獪胡が国名か部族名、あるいは個人名かは不詳)に助けを求め、派遣された獪胡王弟の吶龍(とつりゅう)や将軍らと共に1年間の抵抗を繰り広げるも敗北。
白純は国外へ逃亡し、呂光はその弟・白震(はく しん)を傀儡の王に擁立。亀茲国は前秦王朝によって征服されたのですが、この時に鳩摩羅什も捕虜となってしまいます。
いくら王女を救うためとは言え……
「早くここから出しなさい!」
呂光の指示により、鳩摩羅什は密室に監禁されてしまいました。室内には白純の娘(白氏、実名不詳)も一緒におり、卓上には酒だけがおかれています。
「そこから出たくば、その女を抱くがいい」
つまり呂光は亀茲国の権威を貶めるべく、王女に辱しめを与えると共に、国内トップクラスの学僧である鳩摩羅什に不邪婬戒(ふじゃいんかい)と不飲酒戒(ふおんじゅかい)を破らせようと言うのです。
不邪婬戒とは不道徳な性行為を禁じ、不飲酒戒は飲酒を禁じる戒律であり、破れば僧侶としてのキャリアは終わり、成仏することもならないでしょう。
このまま死ぬ(自殺は許されないため、餓死や凍死など)か、戒律を破って生き延びるか……悩んだ挙句、二人は交わることで合意。
死ぬよりも辛い恥辱の末に鳩摩羅什と王女は釈放されましたが、その胸中が陰鬱であったことは察するに余りあります(※そんな状況下で交わったところで、エロ漫画のように相思相愛のハッピーエンドにはなれないものです)。
「王女殿下をお救いするためとは言え、その御心を傷つけてしまった……ここまでして命を永らえた以上は、生きてなすべきことをなさねばならぬ」
鳩摩羅什は学才を見込まれて呂光の側近に登用され、国政のアドバイザーとして活躍。自分たちを辱めた相手に仕えるなど本心ではなかったでしょうが、権力を導くことで人々を救えるなら、それもまた仏の御心に適うと考えたのでしょうか。
後涼王朝を見限り、後秦王朝に迎えられるが……
呂光は386年に前秦王朝から独立して後涼(こうりょう)王朝を樹立。その初代天王(後に初代皇帝)として君臨しますが、治世は暴政を極めたため国内各地で叛乱が頻発します。
鳩摩羅什はその後処理に追われたのか、あるいは(恐らく諫言ばかりしていたでしょうから)冷遇されていたのか、いずれにせよ国と民の行く末を案じていたのは想像に難くありません。
「民のために、ここで投げ出す訳には行かない……!」
しかし399年に呂光が没し、その跡を継いだ呂纂(りょ さん)が401年に殺され、従弟の呂隆(りょ りゅう)が第3代皇帝に即位するも、後秦(こうしん)王朝の第2代皇帝・姚興(よう こう)に攻められ、401年9月に降伏してその属国となりました。
仏の教えによって平和な国家を築き上げたい……そんな思いからか、姚興は鳩摩羅什を抜擢します。
「我が国では全力を挙げて仏教を普及させたいと考えており、あなたのような高僧に是非ともお導きを頂きたいのです」
姚興は自身も熱心な仏教徒であり、後秦王朝は中国史上、初めて公式に仏教を支援・保護した国家となりました。
民の窮状を思えば後ろ髪(ないけど)を引かれる思いではあるものの、暴政と叛乱に廃れ果てた後涼王朝に未練などない……鳩摩羅什はこれを快諾、後秦の首都である長安へ移住します。
……が、過去に不邪婬戒を破ったことが問題視され、402年に還俗させられてしまったそうです。
「破戒僧に用はない、ただちに立ち去れ!」
熱心な仏教徒であった姚興にとって、たとえ十数年前であろうと人生において一度でも汚点を持つ者を尊崇する訳には行かなかったのでしょう……が、現代人の感覚では「そういうあなたはそれほど高潔で無謬なのか」と思ってしまわなくもありません。
我が所伝が無謬ならば……余生をかけて経典を漢語に翻訳
ともあれ、鳩摩羅什は以降、サンスクリット語で書かれている経典の漢語翻訳に心血を注ぎ、これによって後秦王朝(9割以上が仏教徒になったとか)はもちろんのこと、中国大陸に仏教が広がったのでした。
この鳩摩羅什の翻訳がなければ、現代の私たちも仏教の経典をサンスクリット語で学ばねばならなかったかも知れませんね(それはそれで面白そうですが、漢語以上の困難を伴ったことでしょう)。
でも、翻訳は元の言葉にあった微妙なニュアンスを損なってしまうかも知れません。当時の人々もそう思ったようで、鳩摩羅什は409年に亡くなる直前、こんなことを言い残しています。
「我が所伝が無謬ならば焚身ののちに舌焦爛せず」
※『高僧伝』巻第二より【意訳】私の翻訳に間違いがなければ、私の死後に遺体を火葬しても、この舌が焦げ爛(ただ)れることはないだろう。
……いくら翻訳に自信があるからと言っても、さすがに火葬すれば舌も焼けてしまうだろう……と、鳩摩羅什の死後、遺体を火葬したところ、ほか全身は焼けてなくなっていた灰の中、舌だけは焼けずに残っていたのでした。
ちょっとグロテスクですが、生涯を賭けて学び上げた知識に対する凄まじいまでの誇りが感じられるエピソードとして、今日に伝わっています。
エロい話しから入った鳩摩羅什の生涯ですが、ビクともブレることのない真面目ぶりは、どんな困難にも屈することなく志をまっとうした好例として、現代の私たちも及ばずながら見習いたいものです。
※参考文献
- 植木雅俊『仏教、本当の教え インド、中国、日本の理解と誤解』中公新書、2011年10月
- 船山徹『仏典はどう漢訳されたのか スートラが経典になるとき』岩波書店、2013年12月
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