纏足で命を落とした人たち ~台湾
前回の記事 : 纏足(てんそく)とはなにか 【女性の足を小さくする中国の奇習】
台湾においても女性は纏足をしていた。原住民や客家はその対象ではなく閩南人の女性が多かった。1905年の統計では、台湾の女性の57%が纏足をしていたという。
1898年8月、激しい暴風雨が台北を襲った。山からの水と海からの水で市内に大量の水が流れ込み、多くの市民は家を失い必死で逃げた。その中で多くの纏足の女性が命を失った。なぜなら彼女たちはその足のせいで、逃げたくても逃げることが出来ず溺れてしまったのである。
1906年に梅山で起きた大地震でも、逃げ遅れた多くの纏足の女性たちが命を落とした。
またその時代、台北には小さな町工場が多かった。木造建の工場で茶葉や爆竹(祝い事のために使う)を作っており、多くの纏足の女性が働いていた。爆竹を製造している工場で火災が起こると、当然のことながら工場全体が爆発し燃えてしまう。そこで命を落とした多くの者も、逃げ遅れた「小足」の女性たちであった。
その時代は台湾は日本の統治下にあった。纏足をし、外で働くのが不便な女性は日本の資本主義と合わない。
台湾においても、「纏足の禁止=女性の解放」が始まったのである。
解纏足
ある資料によると、纏足を解くことは縛ることよりももっと苦痛を伴なったという。
固く縛られていた足を一気に解放するのだから当然だろう。そのため纏足を解くことを拒む女性もいたという。
清朝中後期には纏足に反対する動きもあったが成功しなかった。その後、清朝末期になると知識層が「纏足」は中国の黒歴史で忌まわしい習慣だとして、反対運動の団体を発足させた。
賛同した女性たちは纏足を自分の娘に施さないと決めたが、激しい反対にあったという。
中国では、1912年3月13日に纏足の全面禁止が交付された。その後1929年に政府は再度禁止を交付した。それでも雲南省昆明市には「中国最後の小足部落」として61の村が残っており22名の小足女性がいた。しかし彼女たちのための靴を作っていた工場も1999年に閉じた。
宋から始まり、約700年あまりの歴史がある纏足に、ついに終止符がうたれたのである。
台湾では日本統治下時代、台湾人独特の習慣の廃止が始まった。その中に纏足があった。
日本の解剖学者は三つの点を指摘し、纏足の撤廃を求めた。
1. 纏足は健康を損ねる。自由に活動や運動できず不衛生である。筋肉の発達を妨げて血液循環の不良、消化不良、新陳代謝異常、過度の疲労をもたらす。
2. 自由に活動できないため、戦乱、火災、水害、地震などで逃げられない。
3. 国家の経済面においても、纏足の女性は満足に働けない。国家に貢献できない。
日本の当時の女性像は「勤勉でよく働き、活発なこと」が求められた。そんな女性像、母親像の基準と纏足の女性は遠くかけ離れていたのである。
台湾における纏足の女性は主に中国福建省の泉州などからの移民であった。
彼女たちにとって「美の象徴」である纏足の習慣を止めることは大きな変化であり、受け入れ難く感じた女性も多くいた。しかし、この「奇習」とも言われる習慣は客観的にみても弊害しかなく、新しい時代の女性にはそぐわないものであった。
その後、台湾に渡っていたキリスト教の宣教師や教育学校などから知識者の間で纏足撤廃の団体が立ち上がった。「放足」(足を解放する)「天然足」(自然の足)と呼ばれる運動が始まった。
2019年当時、92歳の女性は6才から纏足を始めたという。時代は変わり、纏足の必要がなくなった今こう語っている。
「私は今でも布で足を縛ります。私は沢山の纏足の女性を知っています。でもみんな逝ってしまった。おそらく私が最後の一人でしょう。私は人に足を見せたくありません。とても醜いと思うから。これは私の知られたくない秘密です。」
「纏足」は歴史になろうとしており、女性の社会的立場の変化とともに終わろうとしている。
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纏足はそこから逃げださないようにするためにしたと言う説があるけど?