則天武后とは
武則天(ぶそくてん)※日本では則天武后(そくてんぶこう)は、唐朝3代目皇帝高宗(李治)の皇后で、690年に武周朝を興した中国史上唯一の女皇帝である。
中国の長い歴史において皇后や太后は大きな影響力と発言力を持って、国家に大きな影響を与えてきた。
時には皇帝を凌ぐほどの権力を持った者もいた。
だが、中国の歴史の中で実際に実権を握り女皇帝になったのは、則天武后ただ一人である。
なぜ則天武后は女皇帝にまで上り詰められたのだろうか?
国政に通じていた
則天武后の夫・高宗がまだ皇帝の座に即位していた頃に、則天武后はすでに国政に関与していた。そのため国政に関して多くの知識を持っており、国民もそれを知っていた。
夫が死去した後も息子を助けた。国家は富み、民は安楽に暮らしたという。
彼女は農業を推奨し、積極的に経済を発展させる政策を打って出た。
役人の登用に関しても科挙の制度を改革し、貧しい家の出身者がその才能を発揮させる機会を与えた。身分ではなくその才能で採用を決めたという。
優秀な人材を揃えたという意味で「君子滿朝」(完璧な王朝)と呼ばれた。
貿易に関しても、陸と海からシルクロードへのアクセスを円滑にし、ユーラシア大陸との行ききを可能にした。彼女が統治している間、経済は急速に発展していき、人口は急増したという。
唐朝はとても開かれた王朝だった
彼女の治世においては女性の立場が男性よりも低いということはなかった。女性も才能さえあればのし上がることができ、教育も平等に受けられ政府の役人にも任命された。
女性も男性と同じように活躍の場があったのである。
国民の多くは則天武后の統治を認め、積極的に支持していた。
人の心をうまく掴み、したたかであった
則天武后は国民の好意を得る方法をよく知っていた。そして多くの策略を経て女帝までのしあがった。時には手段を選ばず残酷な手段も使った。
彼女は衣食住に関しては、国民の理解を得るために慎ましい生活を送っていた。
親蚕という儀式を自ら行ったことで知られる。(皇后が自ら桑を切り蚕に与える。この儀式を行う事によって大衆に皇后としての品格を示すとができる。なぜなら儀式の間、何日も野菜だけを食べ毎日夜明け前に起きる必要があった。参加した皇后は数少ない)
夫と共に治めていた時からこのような生活を送っており、当時から国民は「国の母」として則天武后を慕っていた。
国民にとっても彼女が皇帝になることは意外なことではなかった。
唐
太宗と則天武后の面白いエピソード
太宗と則天武后の間には面白いエピソードが残っている。
則天武后は最初に太宗の後宮に入っており、当時は本名の武照と呼ばれていた。
太宗は一冊の預言書を見つけた。その本の中には唐朝の未来についての予言があった。
「唐三代後,有女武代王」
直訳すると、唐の代は3代で終わりそのあと「武」という名の女皇帝が現れる。というものだった。
唐太宗はとても不安になったという。
そして李淳風という預言者の意見を聞いてみる事にした。
李淳風は言った。「預言が成就しようとしている。皇宮に武が姓の女がいるではないか。彼女は40年後に女帝となり、李姓の者を大勢殺すであろう。」
恐れた唐太宗は言った。「では今すぐその女を捉えて殺すのはどうか!?」
李淳風は答えた。「それはいけない!天命は変えられない。安心しなさい。彼女が唐朝を終わらせることはない。だがもし今すぐ彼女を殺すなら違う人間が唐朝を治める。この者は凶暴で強力になり、あなたの後代を根絶やしにする存在となる。」
もし李淳風がこのように答えていなかったら、太宗は即座に則天武后を殺していたはずである。
歴史も大きく変わっていたことであろう。
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