兵馬俑で新発見!
2022年、中国の陝西省文物局が「重要な考古学の発見」と題して記者会見を開いた。
その中には、かの有名な始皇帝陵並びに兵馬俑(へいばよう)についての新たな発見も含まれていた。
13年もの長い期間を費やして、兵馬俑1号から2号で行われた発掘調査の正式な成果が公表されたのである。
「央視新聞」の報道によると、兵馬俑1号坑は最も大きく、その総面積は1万4260平方メートルにも及ぶ。
今回の発掘で、新たに200体余りの兵馬俑、16匹の陶馬、4台の戦車、その他、鼓、槌、盾などの武器、その他数々の道具が千件余り発見された。
その発掘の際に、新たな発見があったという。それは、思いがけない発見で、発掘の途中にたまたま見つかったものだった。
なんと、兵馬俑1号の坑には何者かに掘り起こされた形跡があったという。
単に掘り起こされただけではなく、一本の道がそこに通じるように掘られていた。
その道を通じて、中に入ることができるようになっていたのである。
一体誰が掘った通路なのか?
それについては「歴史書から証拠を見つける」ことができるという。
驚きの盗掘の犯人
この穴を掘らせたのは、なんと秦末期の楚の将軍・項羽(紀元前232年~紀元前202年)であった。
彼は秦朝を滅ぼした人物である。
項羽は、始皇帝陵の建設に参加していた秦の兵士に命じて、兵馬俑坑に通じる通路を掘らせたのだ。
そして、その通路を通じて中に入り、盗掘と破壊を行ったとされている。
その証拠は歴史書が証明している。
多くの史書が、兵馬俑を盗掘しようとした人物について言及しているが、その中に項羽も含まれているのである。
「史記」「漢書」を元にした調査によると、項羽が楚漢戦争において、劉邦から10の罪状に問われたことについて言及している。
その中のいくつかは「楚懐王との約束を守らなかったこと」に関してであるが、他には「秦朝の宮を火で焼いたこと」「大規模な略奪を行ったこと」そして「始皇帝陵を盗掘したこと」などであった。
数々の罪に問われた項羽は怒り狂い、劉邦の胸に向けて矢を放った。矢は見事に命中したが、幸いにも劉邦は一命を取り留めた。
項羽の始皇帝陵盗掘は、とても大規模であったことがわかっている。
なんと動員数30万人、30日もの期間をかけて行われたのである。
現在の発掘調査の結果からも分かるように、始皇帝陵には膨大な量の宝が眠っている。
しかし項羽は、全てを運び出すことはできなかった。そして盗掘の間に羊がその通路に迷い込んでしまい、探しに入った者の不始末で、火災を引き起こしてしまった。
その火は多くの宝を燃やすことになり、90日間その火は消えなかったという。
今回の発掘では、なんとその燃え跡も確認されている。そして火災によって破壊された物品や、持ち出された形跡なども数多く見つかった。
そして盗掘に携わった者の多くは「始皇帝陵だったことを知らなかっただろう」と推測されている。
なぜ項羽は、1号だけ盗掘したのか?
項羽の軍は遠征期間が長引いたこともあり、早く故郷に帰りたかった。
勝利を収めた後、1号坑を掘っただけでかなりの戦利品を手にしていた。彼らはすでに大いに満足していたのである。さらに楚国との約束もあり、帰郷する必要があった。
さらに多くの宝が眠っていることも知らずに、項羽軍は戦利品を持って帰還していったのである。
今回の発表では、こう結んでいる。
もし、項羽の軍がもっと長く盗掘を進めていたなら、始皇帝陵の多くが持ち帰られ、破壊されていただろう。現在まで状態良く残されたのは、彼らが急いで国に帰郷したためであった。
現在、私たちが歴史ロマンを感じている兵馬俑は、項羽軍の手を逃れたものたちである。
歴史というのは、いつの時代も「不思議な偶然」の上に成り立っている。私たちの人生も然りである。
参考 : 兵馬俑考古重大發現!項羽曾想挖秦始皇陵 | 央視新聞
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