武則天とは
武則天は、中国の歴史において唯一の正統な女皇帝である。彼女は624年に生まれ、690年に自ら皇帝として即位した。
日本では「則天武后」という呼び名が一般的である。
武則天の生涯は波乱に満ちており、残虐な手段を使って国の当事者へと成り上がったことや、統治も賛否両論を呼ぶものだったことから、中国では呂后、西太后とならんで「三大悪女」の一人ともされている。
武則天は、唐の皇帝・高宗李治の皇后として権力を握り、その後自らが皇帝となるべく様々な策略を駆使した。彼女は徹底した権力集中を図り、多くの敵対者を粛清したことから暴君とされる一方で、彼女の治世には中央集権化が進み、国家の基盤が強化されたとも評価されている。
また、武則天は文学や学問の振興にも力を入れ、科挙制度の整備を進めた。この結果、多くの有能な人材が官僚機構に登用され、国の繁栄に寄与した。仏教の保護にも力を入れ、多くの寺院や仏像が建設された。
705年、武則天は病に倒れ、翌年に退位を余儀なくされが、その存在と業績は歴史に深く刻まれている。武則天の墓である乾陵には文字のない「無字碑」が建てられ、その謎と共に彼女の伝説は今日まで語り継がれている。
今回は、そんな武則天の墓の謎について紹介したい。
武則天の墓
武則天は神龍元年11月26日(705年12月16日)に上陽宮で死去した。享年82であった。
彼女は生前の遺言通り、唐高宗李治と共に乾陵に埋葬された。
乾陵には文字のない記念碑が建てられており、この「無字碑」は特に注目を集めている。
乾陵は現在の陝西省咸陽市北部6キロの梁山の上に位置している。
乾陵一帯には他にも多くの皇族やその家族が埋葬されているが、盗掘されることなく保存されている陵墓は少ない。
その中で乾陵は保存状態が非常に良いことで知られている。
無字碑の謎
無字碑に、なぜ文字が彫られなかったのかについては、いくつかの見解がある。
・自信の表れ:武則天は非常にプライドの高い皇帝であり、その業績は文字に頼らずとも人々に知られていると自負していた。
・功績と犠牲:彼女は自身の功績が多くの犠牲の上に成り立っていることを認識しており、そうした背景から文字で表すことをためらった。
・後世への期待:彼女は自身の評価は後世の人々が決めるべきものであり、自らの時代の評価に依存しないと考えていた。
これらの理由について真相を知るのは、武則天ただ一人である。
61体の頭部の無い石像の謎
乾陵の朱雀門の前には、61体の石像が墓を守るように立っている。
しかし、これらの石像の全ての頭部が失われていることが注目されている。
石像の背中にはそれぞれの人物の名前と略歴が刻まれているが、頭部がないのは一体どういうことなのか。
頭部が失われた理由
この謎についてもいくつかの説が存在する。
・盗賊による盗難:石像の頭部が盗賊によって持ち去られた可能性がある。
・後世の人々の行為:後世の人々が、先祖が墓の前に立たされていることに屈辱を感じ、国の尊厳を守るために頭部を持ち去った。
・地震の影響:西暦1555年に発生した大地震で全ての石像が倒れ、頭部が落ちてしまった。
現時点で最も有力な説は地震によるものだが、それでも全ての石像の頭部が失われているのはあまりにも偶然であり、奇妙なことのように思える。
頭部がすべて故意に持ち去られたと考える方が納得できるが、そうなると何らかの目的があるはずである。
頭部の発見
1974年、乾陵付近に住む農民が田畑を耕していたところ、いくつかの石頭が発見された。
それらを調査した結果、なんと乾陵の石像の頭部であることが判明した。
なぜ頭部が別の場所に埋められていたのかについても、謎が深まるばかりである。
最後に
石像の頭部が失われた理由については、はっきりとした答えは未だに不明である。頭部がすべての石像に残っていた時期が分かれば、何か手掛かりが得られるかもしれないが、現時点ではどの説も憶測の域を出ない。
武則天の墓とその周囲にまつわる謎は、歴史のロマンを掻き立てるものであり、多くの研究者や歴史愛好家の関心を集め続けている。歴史の真相を解明するための探求は、今後も続けられるであろう。
参考 : 咸陽市観光局 観光資源 陵墓
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