明朝の厳しい法

画像 : 洪武帝(朱元璋)の肖像画(国立故宮博物院蔵)public domain
明は、1368年に始まった王朝である。
建国したのは朱元璋(しゅげんしょう)で、後に明太祖と呼ばれる。
元末の混乱期、各地では反乱や争いが絶えず、人々の生活は崩れ落ちていた。その混乱の中から台頭し、天下統一に至ったのが朱元璋であった。
戦乱で社会秩序が壊れたあと、国を立て直すためには強力な統治体制が必要とされた。
そこで明朝は、政治・軍事・経済・法律を皇帝の権力に集中させ、厳格な統治方針を掲げた。
特に法律と刑罰は、秩序を守るための重要な柱と位置づけられた。
この時代の刑罰は、単に犯罪者に制裁を加えるだけのものではない。
国家の威信を示し、人々に恐怖を与えることで再犯や反抗を防ぐという「見せる統治」の役割を担った。
結果として、明代には多くの厳しい刑罰が施行されることになる。
一見すると穏やかに聞こえながら、実際には極めて過酷な刑罰も存在した。
後世の史話や通俗史料に見える「梳洗刑(そせんけい / すうせんけい)」「刷洗刑(さっせんけい)」と呼ばれる刑罰は、その象徴的な例である。
本来の言葉の意味

画像 : 梳洗 イメージ 草の実堂作成(AI)
梳洗(そせん / すうせん)や刷洗(さっせん)という語は、もともと日常の中で清める行為を指す言葉であった。
髪をとき、体を清める、汚れを落とすといった、ごく普通の生活の中にある身支度の動作を表し、どこにでも見られる平凡な語として用いられてきた。
そのため、もし役人が囚人に向かって「梳洗せよ」「刷洗せよ」と命じたとしても、字面だけ見れば「体を洗え」という穏当な意味にしか聞こえなかっただろう。
むしろ、汚れを落とし整える当然の行為を促す、平凡なひと言のように響いたはずである。
ところが、歴史のある段階から、この語は全く別の色を帯び始める。
いつしか「体を整える」という静かな語感は、「体を削る」という暗く重い響きへと歪められていったのだ。
その語義の変化を示す史料として、唐代の正史『旧唐書』に記録された事件がある。

画像:『唐后行从図』武則天とその随臣を描いたとされる。唐代の画家・張萱の作と伝えられる Public Domain
武則天の甥であり、武周政権下で強い影響力を持った武三思(ぶさんし)は、神龍政変(705年に武則天を退位させ唐を復活させた政変)によって大きく立場を失った。
この政変の中心人物の一人が、御史中丞であった桓彦范(かんげんはん)であり、武三思にとっては自らの失脚の原因を作った政敵であった。
しかし武三思は、政変後も韋皇后の支持を得て宮廷に復帰し、再び権勢を握る。
恨みを抱いていた武三思は讒言によって桓彦范を失脚へ追い込み、ついに捕縛させた。
『旧唐書』は、武三思が桓彦范に対し、竹製の槎の上で体を引きずらせ、肉が裂け骨が露出するほどの拷問を命じたと記す。
後世の説話や民間史話では、この責め苦が、のちに語られる「梳洗刑」「刷洗刑」の原型として取り上げられる例が多い。
さらに時代が下ると、明代初期の逸史『聖君初政記』において、「刷洗」という名の酷刑が登場する。
原文には「裸置鐵床,沃以沸湯,以鐵帚刷去皮肉」と記され、囚人を裸にして鉄床に据え、沸騰した湯を浴びせ、鉄刷毛で皮肉を削ぎ落とす刑であったことがわかる。
後世の通俗史料や民間伝承では、この「刷洗」を「梳洗刑」とも書き換え、同一のものとして扱う記述が広く見られる。※ここでも以降「梳洗刑」と記す。
もともとは身支度や洗浄を指す日常語が、いつしか残酷な刑罰名として語られるようになり、「体を洗え」というひと言が恐怖を象徴する響きを帯びていったのである。
「体を洗え」と聞いただけで自白

画像 : 刑を宣告される女囚イメージ 草の実堂作成(AI)
梳洗刑が恐れられた最大の理由は、その手順の残酷さにあった。
ただ痛めつけて死に追いやるのではなく、意識を保たせたまま、限界まで肉体と精神を追い詰める点に特徴がある。
『聖君初政記』に記述された手順は、次のような流れで行われたとされる。
まず、囚人の衣服をすべて剥ぎ取り、鉄製の寝台にしっかりと縛りつける。続いて沸騰した湯をゆっくりと体にかけ、皮膚を軟化させる。
熱湯は命を奪うわけではなく、長時間持続する強い痛みを与えるために用いられたとされる。
その後、鉄製の刷毛を用いて、表面を少しずつ削ぎ落としていく。細かい金属の歯で何度もこすることで、火傷した部分が削れ落ち、受刑者は気力と体力の両面から限界に追い込まれた。
もし受刑者が気絶すれば、冷水が浴びせられた。
しかしこれは救済ではなく、気絶を防ぎ、意識を回復させるための措置である。
施刑者は意識が戻るのを見届け、再び鉄刷毛を動かす。死ぬことすら許されない時間が延々と続いたとされる。
特に女性囚人に対しては、多くの見物人を前に衣服を剥ぐ形で行われたとする記録もあり、屈辱と羞恥を最大限に利用した心理的圧迫が加えられたと伝わっている。
「刷洗!(体を洗え)」
その一言が告げられた瞬間、多くの女囚はその場に崩れ落ち、泣き叫びながら罪を認めたという。
その後の評価
梳洗刑は、明代初期の統治において恐怖を象徴する刑罰となったとされる。
実際にどの程度制度化され、どれほど行われたのかについては、正史に直接的な記録が乏しいため、断言はできない。
『聖君初政記』のような逸史や民間伝承の中で、その凄惨な描写が残されたことで、人々の記憶に深く刻まれたのである。

画像 : 人々の間で広まった面長の朱元璋の肖像画 public domain
朱元璋の統治は、恐怖による引き締めと、秩序回復の両面を持っていたと考えられる。
洪武初年、戦乱の後で治安回復が急務となる中、反乱や抗命を抑え込むために重刑主義が前面に出た。
朱元璋の後世の評価は分かれている。
明末清初の学者は、朱元璋を厳政によって国を建てた偉大な統治者と称える一方で、酷刑の多用と猜疑心の強さが生んだ恐怖政治について批判的に語る者も少なくなかった。
こうした背景の中で、明代初期の刑罰をめぐる逸話や史話は多く語られるようになった。
史料上、刷洗は実在の刑として記録されているが、制度としての体系的裏付けが確定しているわけではない。
それでも、恐怖の象徴として長く語り継がれたことは、明代初期の社会における刑罰観の苛烈さを映し出す痕跡とみなすことができるだろう。
参考 : 『旧唐書』『明史』『聖君初政記』他
文 / 草の実堂編集部
























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