南北朝

『叔母を無理やり…』中国史上最も狂っていた少年皇帝・劉子業とは

「南朝 宋」少年皇帝の登場

画像 : 南北朝時代(北魏と宋) wiki c 俊武

いまから1500年以上前、中国は「南北朝時代」と呼ばれる分裂の時代を迎えていた。

北では鮮卑(せんぴ)という異民族が建てた北魏(ほくぎ)が強大な力を誇り、南では漢人の王朝が江南に興り、時代ごとに交替していった。

そのひとつが(そう)である。後の北宋や南宋と区別するため、ここでは劉宋と記す。

劉宋は、西暦420年、劉裕(りゅうゆう)が建てた王朝で、長江の南に都・建康(現在の南京)を置いていた。

画像 : 宋の初代皇帝・劉裕 public domain

もともと江南は豊かな米どころであり、文化の中心でもあったが、王朝の権力争いは常に血で血を洗う激しさを見せていた。

そんな劉宋の第5代皇帝となったのが、劉子業(りゅうしぎょう)である。

西暦464年、まだ16歳の若さで帝位に就いた。

父は孝武帝(劉駿 りゅうしゅん)、母は文穆皇后(王憲嫄 おうけんげん)で、血筋だけ見れば、帝位を継ぐにふさわしい家柄の嫡子だった。

だが若くして父を亡くし、また周囲に彼を正しく導く人物もいなかった。

そのため幼い皇帝は、次第に奇行と暴虐に傾き、宮廷を震撼させる存在となっていった。

即位直後の異常な兆し

画像 : 劉宋前廃帝・劉子業の肖像画 public domain

こうして帝位に就いた劉子業(りゅうしぎょう)だったが、華やかな即位式の裏で、すでに彼の行動には異常性が垣間見えていた。

父・孝武帝の死は、本来であれば国中が悲嘆に包まれるべき出来事である。

しかし、劉子業は柩の前で涙を見せず、後殿で宮女と追いかけっこに興じ、朝臣たちを唖然とさせたという。
幼さゆえの軽率と片付ける者もいたが、これは後に宮廷を揺るがす暴虐の前触れにすぎなかった。

さらに、母である王太后が重病に倒れ、臨終の床から息子を呼び寄せたときのこと。

誰もが皇帝の見舞いを待ち望んだが、劉子業は「病人の部屋には鬼がいる、恐ろしくて行けぬ」と言い放ち、ついに足を運ばなかった。
王太后はその怒りを抱いたまま世を去り、母子の絆は最期の場面で断ち切られてしまった。

政務においても、不穏な兆しが見え始める。

孝武帝の遺命により、江夏王・劉義恭(りゅうぎきょう)、名将・柳元景(りゅうげんけい)、重臣・顔師伯(がんしはく)、老将・沈慶之(しんけいし)らが新皇帝の補佐を担うことになっていた。

ところが実際には、孝武帝のもとで力を振るっていた戴法興(たいほうこう)や巢尚之(そうしょうし)が内外の政務を握り、若い皇帝の意志はしばしば退けられた。

父の死に冷淡と見られ、母を臨終の床で怒らせ、政務の場でも権限を奪われる。

こうした孤立と抑圧が積み重なり、少年皇帝の性格はさらに偏り、やがて自らの力を誇示しようとする衝動へと変わっていった。

恐怖政治の始まり

画像 : 宮殿イメージ 草の実堂作成(AI)

即位からわずか一年、劉子業の周囲は血に染まりはじめた。

最初の犠牲となったのは、父・孝武帝の時代から権勢を振るっていた戴法興(たいほうこう)である。

若い皇帝の意志をたびたび抑え込んできた彼は、465年、宦官の讒言をきっかけに失脚させられ、郷里に帰されたのち、やがて自邸で殺害された。
棺は壊されて焼かれ、子らも連座して命を奪われ、財産も没収されたと伝えられる。

だが、これだけでは止まらなかった。

続いて標的となったのは、補佐役の江夏王・劉義恭、柳元景、顔師伯らである。
彼らは暴政を憂い、密かに廃立を相談していたが、計画は露見し、劉子業は永光元年(465年)に禁軍を動かして一斉に誅殺した。

なかでも、劉義恭への仕打ちは常軌を逸していた。

劉義恭は初代皇帝・劉裕の五男で、三代に仕えた功臣として知られていたが、捕えられて四肢を断たれ、眼は蜜に漬けられたと伝わる。

この残虐な所業は「鬼目粽(きもくそう)」と呼ばれ、後世まで悪名高く語り継がれた。

こうして功臣や宗室を血で粛清した劉子業は、もはや誰も諫められぬ暴君となり、宮廷は恐怖政治の舞台へと変わっていった。

血縁さえも弄ぶ暴君

政敵を血で粛清した劉子業の狂気は、やがて身近な親族へと向かった。

もっとも衝撃的だったのは、叔母の新蔡公主・劉英媚(りゅうえいび)を、後宮に強引に連れ込んだ事件である。

画像 : 叔母の劉英媚を追う劉子業 イメージ 草の実堂作成(AI)

彼女は元々、将軍の何邁に嫁いでいたが、劉子業はこれを無理やり宮中に留めて、自分の側室の一人とした。

そして、外向けには「公主はすでに亡くなった」と偽り、女官の遺体を取り繕って夫のもとに送り返したという。
真相を知った何邁は憤激し、反乱を企てたが、事が露見して一族もろとも滅ぼされた。

さらに、実の姉である山陰公主・劉楚玉(りゅうそぎょく)との関係も異常だった。

彼女は「陛下の後宮には無数の美女がいるのに、私は夫ひとりだけでは不公平です」と訴え、劉子業はその願いを受け入れ、数十人の男を遊び相手として与えたという。

姉弟そろっての逸脱した行動は、宮廷内外を震撼させた。

皇族の叔父たちに対する仕打ちも凄惨であった。

湘東王・劉彧(りゅういく)らを宮中に囚え、肥えた体をからかって「豚王」と呼び、竹の籠に閉じ込めて泥水に沈め、家畜のように餌を食わせて嘲笑した。

こうした、血縁までも弄んだ劉子業の暴虐は、宮廷を恐怖で満たした。

やがてその刃は、彼自身へと向けられることになる。

暴君の最期

恐怖に満ちた宮廷のなかで、ついに暴君を討つ動きが芽生えた。

首謀者となったのは、かつて「豚王」と嘲られ辱めを受けた叔父、湘東王・劉彧(りゅういく)だった。
彼は側近の寿寂之(じゅじゃくし)らと密かに結託し、甥である劉子業を討つ機会をうかがっていた。

永光元年(465年)の冬、劉子業は都・建康にある離宮、華林園の竹林堂で、巫術を行っていた。

これは「鬼を祓う」と称して宮女や家臣を矢で射殺し、血を捧げるという荒唐無稽な儀式であった。

画像 : 異常な巫術を行う劉子業 イメージ 草の実堂作成(AI)

その最中、寿寂之が抜刀し、皇帝の背後から斬りかかったのである。

戊午夜,帝於華林園竹林堂射鬼。時巫覡云:「此堂有鬼。」故帝自射之。壽寂之懷刀直入,姜產之為副。帝欲走,寂之追而殞之。時年十七。

【意訳】

465年11月29日(西暦466年1月1日)の夜、帝は華林園の竹林堂で「鬼を射る」儀式をしていた。
巫覡(ふげき 呪術を行う者)が「この堂には鬼がいる」と言ったためである。

そこへ寿寂之が刀を懐に忍ばせて突入し、配下の姜產之が副として従った。
帝は逃げようとしたが、寿寂之に追われて殺された。享年17。

『宋書』巻七「本紀第七 前廃帝紀」より

劉子業は、絶命の間際に「寂寂」と叫んだという逸話もあるが、それが刺客・寿寂之の名を呼んだものか、それとも己の末路を嘆いたものかは定かではない。

こうして、劉子業の短い治世の幕は閉じられた。

その後は劉彧が即位し、劉宋はしばらく命脈を保ったものの、内乱と外圧に押されてやがて歴史の舞台から姿を消していった。

一年半足らずの治世ながら、劉子業はその暴虐ゆえに史書では「前廃帝(ぜんはいてい)」と記され、暴君として歴史に刻まれた。

その名は千年を超えてなお、人々の記憶に暗い影を落とし続けている。

参考 :『宋書』巻七「本紀第七 前廃帝紀」『南史』『資治通鑑』他
文 / 草の実堂編集部

草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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