世界中のファンを魅了した名優
2022年11月1日、世界中の三国志ファンに訃報が届いた。
三国志の実写作品の最高峰である『三国演義』で関羽役を演じた陸樹銘(ルー・シューミン。記事内では以後「陸樹銘」と表記)が、心筋梗塞により66歳で亡くなったのだ。
筆者がこの訃報を知ったのは、実は2ヶ月後の2023年1月だったのだが、70代、80代の芸能人が当たり前のように活躍している現代において、66歳は早すぎる死である。
三国志を題材にした数多くの実写作品の中でも、陸樹銘ほど関羽にふさわしい俳優はいない。
まるで現代に役者として転生してきた関羽そのものであり、後にも先にも彼以上の適役は存在しないだろう。
今回は、最期まで関羽役を演じ続けた陸樹銘の足跡を辿っていく。
才能豊かな青年の夢

画像 : 陸樹銘氏 DramaWikiより
1956年8月15日、陸樹銘は山東省青島市で転生した。
筆者が、三国志関連の記事を執筆する上で資料の一つにしている『三国演義 写真図鑑』のキャスト紹介によると
彼はもともと町工場の労働者であったが、突如として俳優を志し、西安話劇院に入った。
との事だが、もう少し詳しく経歴を辿ると、10歳になって父親の地域開発に携わる仕事のため、青島から陝西省に移住し、渭南、西安と拠点を移している。
長身を活かしてバスケ部で活躍する傍ら、後に歌手としても大活躍するその美声が音楽教師からも注目され、歌と演技が融合した京劇への興味や憧れも自然と芽生えていった。
特に陸樹銘が好きだったものはオペラで、本人もオペラ歌手を目指していたが、国外文化への弾圧の強い当時の中国の情勢と、オペラ歌手という不安定な職業への夢は、安定した仕事を期待していた両親から大反対を受ける。
これまで息子のやりたい事に反対せず、自由にやらせてくれた両親から生まれて初めて受ける反対に、陸樹銘は、こちらも生まれて初めての親への反抗と言わんばかりに必死に説得するが、両親の考えを改めさせる事は出来ず、夢を諦めて就職する事になる。
陸樹銘は1976年に航空写真家となり、安定した収入を得るようになる。
働きながら余暇の時間は趣味のバスケを楽しむ、何処にでもいる普通の青年だった陸樹銘だが、人生を変える機会はすぐにやってきた。
付き添いから俳優へ
1980年「娘のオーディションに付き添って欲しい」という近所に住む知人の頼みで、陸樹銘は西安戯劇院に向かう。
そこで注目されたのは、オーディションに応募もしていなければ、受ける予定もない陸樹銘だった。
劇団の演技チームの副団長である郭達からオーディションを受けるよう説得され、陸樹銘は見事に合格する。
思わぬところから夢を叶える機会を得た陸樹銘は、再度両親から猛反対にあうが、一晩中説得のために跪き、ついに折れた母親から父親に口添えを貰い、役者となる許しを得る。
だが、役者の世界は24歳で仕事を辞め、イチからのスタートを切る「オールドルーキー」を暖かく迎えてくれるような優しい場所ではなかった。
苦難の日々

画像 : イメージ
3年間の下積みを経て、陸樹銘は1983年にテレビドラマ『大漠中的男人』の李虎役で、初めて名のある役を得るが、恋愛禁止という劇団のルールを破り、劇団から離れる事になる。
アルバイトをしながら映画を見ては演技の研究をするなど努力を重ねていた陸樹銘だが、友人と踊っていた事が罪に問われ、今度は懲役16ヶ月の判決を受ける。
出所後の1985年から再びテレビドラマに出演するようになると、1986年の映画『湘西剿匪記』で映画デビューを果たす。
その後、かつて交際していた劇団の女性と結婚すると、娘も生まれ、私生活も順風満帆と思われたが、結婚から僅か数年で離婚する。
娘は元妻に引き取られ、家族を失った陸樹銘は仕事で淋しさを忘れようとするが、そんな彼の姿を見た知人の紹介で、後妻となる高嵐と出会う。
陸樹銘は高嵐に心を奪われるが、肝心の高嵐はいわゆるバツイチで、歳の離れた陸樹銘に大した興味を示さなかった。
諦めきれない陸樹銘は映画のキャストに高嵐を推薦し、共演するという力業で一緒に過ごす時間を確保する。
強引な手段ではあったものの、高嵐は現場で同じ時間を過ごすうちに陸樹銘に惹かれるようになり、交際を始める。
その交際も順調とは言えず、高嵐の両親からは出会った時の彼女とほぼ同じ理由で交際、結婚に反対されるが、二人の交際が真剣である事と、陸樹銘の「あなたたちの娘を大切にする」という約束から、結婚を許される。
二度目の結婚に「今度こそこの幸せを大切にしよう」と誓った陸樹銘だが、ほぼ同時期に生涯最大の出会いがやってくる。
オーディションに現れた関羽雲長

画像 : 劉備・関羽・張飛(桃園の誓い)public domain
1990年頃、三国志実写作品の最高峰となる『三国演義』のオーディションが始まっていた。
振り返れば、主要キャストはいずれも「現代に転生した三国志の人物」としか思えないほどの適役揃いであり、制作陣の並々ならぬ本気度が伝わってくる。
当然ながらキャスト選考には膨大な時間と労力が注がれたはずで、その難航ぶりは想像に難くない。
そんな中で現れたのが、陸樹銘だった。
彼が自ら応募してきたのか、それとも関羽を探す過程で発見されオファーを受けたのかは定かではない。
だが、オーディションに立った陸樹銘を目にした者は皆、「そこに関羽がいる」と感じるほどの衝撃を受けたに違いない。
こうして関羽役に抜擢された陸樹銘だが、撮影は三年に及ぶ長丁場であった。
妻となった高嵐の妊娠期に寄り添えず、さらに「神」として崇められる関羽を演じる重圧に眠れぬ夜を過ごすなど、決して楽な日々ではなかった。
それでも私生活を犠牲にし、ひたすら関羽であろうとし続けた陸樹銘、そして全てのキャストやスタッフの情熱があったからこそ、『三国演義』は放送から三十年を経た今日なお、三国志実写作品の最高峰として揺るぎない存在であり続けている。
三弟のために 実現したもう一つの夢
前述した通り『三国演義』の撮影長期間に渡って行われたため、キャスト同士で過ごす時間は家族よりも長かった。
もはや家族同然の関係となっていたキャスト達だが、2015年に張飛を演じた李靖飛が脳梗塞に倒れる。
中国も医療費は決して安いものではなく、仕事ができない身体となればその負担はさらに厳しいものとなる。
そんな李靖飛のために立ち上がったのが、陸樹銘だった。
2016年、モバイルゲームの『三国群英伝』のイメージキャラクターとして陸樹銘が選ばれ、久しぶりに関羽を演じる事になった。
イメージキャラクターだけでなく、ゲームの主題歌も歌うなど大活躍となった。
余談だが、陸樹銘は2015年に『一壺老酒』という曲で歌手デビューしており、学生時代から注目されていたもう一つの才能を開花させる。
学生時代にその歌声を絶賛され、本気で夢見ながらも両親の反対によって諦めた歌手という夢が60才を過ぎて実現したわけだが、還暦を過ぎてから積極的に関羽になるようになったのも、歌手としての仕事を始めたのも、全ては「三弟」と呼ぶ李靖飛のためだった。
陸樹銘の支援もあって、李靖飛は車椅子姿ながらも再び人前に立ち、舞台の上で陸樹銘と共に笑顔を見せるまでに回復した。
しかし、陸樹銘の死からわずか二十三日後の2022年11月24日、李靖飛もこの世を去った。
病に蝕まれながらも、彼は実写における張飛の最高峰であり続けた。
張飛が関羽と並んで笑うその光景を最後に目にできたことは、現代に生きるファンにとってかけがえのない幸せであった。
関羽として生きた陸樹銘
2021年に公開された映画『青龍偃月刀』で、陸樹銘は再び関羽として登場した。
実年齢に近い晩年の関羽を演じ、その姿は「関羽役はこの人しかいない」という存在感を改めて世界に示した。
本作の主役は関羽の子・関興であり、関羽の出番は冒頭の十数分に限られていた。
宣伝映像では大きく扱われながらも、物語全体では期待されたほどの活躍はなかった。
それでもなお、最新の映画において陸樹銘が関羽を演じ続けてくれたという事実自体に、大きな意味があった。
その後も舞台で関羽を演じ続けたとされるが、映画での遺作が「麦城で戦死する関羽」であったことは、偶然とはいえ象徴的であり、陸樹銘の俳優人生を締めくくるにふさわしい役となった。
現代の芸能界では70代、80代で現役を続ける俳優も少なくない中、66歳での逝去はやはり早すぎたと言わざるを得ない。
今後も三国志を題材とした作品は生まれ、新たな関羽像が描かれていくだろう。
その中で陸樹銘が築いた存在感は揺るぎなく、後続の俳優たちの目標となり続けるはずである。
参考 : 光明网「94版《三国演义》钟一「陆树铭 花甲之年仍 关公」『时代人物』第12期 他
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部
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