三國志

赤壁の戦いについてわかりやすくまとめてみた

紀元25年から約200年続いた漢王朝(後漢)の末期、政治が混乱し、各地で反乱が相次いでいた。その反乱を鎮圧した諸侯が王権を脅かす力を得たことで、群雄割拠の時代が到来する。

その中で頭角を現し、最も強大な力を持ったのが曹操(そうそう)であった。

今回は曹操のエピソードの中でも一際有名な「赤壁の戦い」についてまとめてみた。

曹操の進軍

赤壁の戦い
※「Wuhan」は現在の武漢市(ぶかんし/ウーハンし)、「yangtze」は長江の最下流部の異称である揚子江(ようすこう)「han」は漢水を表している。

中華文明の中心地・中原(黄河の中下流域一帯)を平定した曹操は、208年7月、荊州(けいしゅう)を奪取するために自ら率いる15万の軍勢を南下させた。

荊州は長江と漢水(長江の最大の支流)に延びる街道が交わる交通の要衝で、農耕に適した広大な土地もあるため、戦略上見逃せない土地であった。

揚州を本拠に江南(長江の南部)一帯を支配する孫権も、荊州を我が物とする野望を抱いていた一人である。曹操に対抗するためにも、荊州は是が非でも押さえたい地域だった。

※中国の大河

上の画像の赤いラインが、中国で長江・黄河に次ぐ第三の大河である「淮河(わいが)」。その下(南)の黒いラインが長江となる。

孫権は、淮河から長江の南部を支配していた。一番上(北)の黒いラインが黄河で、この中下流を支配していた曹操も、長江が流れる荊州(けいしゅう)を北方から狙っていたことになる。

孫権・劉備同盟


※曹操

当時の荊州は、漢王室の血を引く劉表(りゅうひょう)が支配していたが、彼は曹操が南下を開始した直後の8月に病死してしまう。跡を継いだ劉琮(りゅうそう)は、家臣たちの進言を容れ、曹操への降伏を決定した。つまり、荊州を支配するには曹操と孫権が戦い、どちらかが勝利すれば良い。

この時、降伏した劉表軍のなかに、後に曹操たちと覇を競うことになる劉備(りゅうび)がいたが、降伏を決断したときには最前線を守っていた。曹操の軍門に下る気のない劉備は、彼を慕う10万の民とともに南方へと逃れ、途中、曹操軍の攻撃で散り散りになりながらも、長江と漢水が交わる夏口へ到達した。

一方で曹操は劉表が創設した荊州水軍を手に入れ、そのまま南下すると長江沿いに兵を布陣させた。

数十万の兵を擁すると言われる曹操の大軍勢を前に孫権の陣営は恐れを抱く。

しかし、都督(軍司令官)の周瑜(しゅうゆ)は「敵は慣れぬ南方での行軍に疲れており、水軍による戦いにも慣れていない。こちらが地の利を得て戦えば勝てる」と唱え、孫権の意思を徹底抗戦に傾かせた。さらに孫権軍は劉備と同盟を結び、協力して曹操の大軍を迎え撃つことになる。

その影では、劉備の軍師となっていた諸葛亮の働きもあった。

両軍の動き


※赤壁古戦場(赤壁市)

劉琮(りゅうそう)の降伏を受け入れ、劉備を追撃して追い払った曹操は、荊州から長江沿いに南下した。ここから夏口に軍を進めようとしたのだが、水上と陸上から東へ進軍する曹操軍内では、慣れぬ南方の風土と食べ物が原因で疫病が蔓延することになる。

そこで曹操は一気に夏口を攻略することを諦め、長江に面し、崖の土が赤いことから「赤壁」と呼ばれる場所で軍を停止させる。曹操軍は赤壁の対岸の烏林に野営地を築き、水軍は流されないよう鎖でつないで連結させた。

曹操軍停止を知った孫権軍の周瑜(しゅうゆ)率いる3万は、ただちに赤壁に集結した。

『三国志』呉書周瑜伝によれば、この時、周瑜の部将の黄蓋(こうがい)は敵の船団が互いに密集していることに注目し、火攻めの策を提案する。油に浸した草や薪を積んだ船に火をつけ、連結した敵船団に突撃させるというのである。

ここで、もう一度両陣営の編成と行動を確認しておこう。

◎曹操軍
荊州水軍を配下に加え、夏口への侵攻途中に赤壁で野営する。

◎孫権軍
軍司令官の周瑜は、部将の黄蓋の策を受けて火船隊を編成する。劉備・諸葛亮の軍もこれに合わせて攻撃をする計画である。

赤壁が炎に染まる


※赤壁の戦い要図

黄蓋(こうがい)は自ら火船隊を率い、投降すると見せかけて曹操軍に接近した。

黄蓋の裏切りを信じた曹操軍は、火船隊の接近を許してしまう。頃合いを見た黄蓋たちは曳航してきた小船に乗り移り、火船に点火した。燃え盛る船は密集した船団の中に突っ込み、炎をあたりに撒き散らす。炎は連結されていた船に次々と燃え移り、強風に煽られて陸上の野営地にも延焼したのだった。

これを確認した周瑜は、身軽な軽装備の部隊を烏林へ上陸させ、大混乱に陥った曹操軍を襲撃する。

それでも曹操は生き残った軍勢をなんとか集結させて、後退を開始した。そこへ、密かに曹操軍の背後に回りこんでいた劉備の軍勢が姿を現し、攻撃を開始する。曹操軍は火災による混乱と襲撃によって大打撃を受け、全軍の半数を失って逃げ延びたのだった。

『三国志』呉書呉主(孫権)伝には、曹操軍の敗残兵の大半が飢えと病で亡くなったと書かれている。

劉備の成果


※赤壁の戦いを描いた画

この戦いにより、曹操軍の南方侵攻作戦は停滞を余儀なくされた。

しかし、この一戦に敗れたとはいえ、曹操は依然として群雄中最大の力を持ち続けている。一方、孫権は荊州の長江沿いに勢力を伸ばすことに成功した。だが,この戦いでもっとも大きな成果を手にしたのは劉備だった。

赤壁の戦いの直後に荊州南部4郡を奪取した彼は、翌年には州の有力者たちに推され、荊州の支配者となるのである。
以後劉備は、ここ荊州を本拠地として曹操や孫権と覇を競ってゆく。

この赤壁の戦いによって、三国志の時代が始まるのである。

三国志正史と三国志演戯

諸侯が大陸に覇を唱えようと策略を巡らせ、幾多の軍勢が戦ったこの時代。その記録は主に、同時代の官吏である「陳寿(ちんじゅ)」が記した「三国志」に詳しい。
現代では、これを「正史」として「おおむね史実に基づく記録」として扱うが、一方で日本でよく知られる三国志の物語は、後世に創作されたエピソードをまとめた「三国志演戯」のほうが有名である。劉備(りゅうび)を善、曹操を悪としてイメージを作り、後半では諸葛亮を智謀の天才として主人公としている。

演戯」とは、いわば昔話や紙芝居のようなものだ。

赤壁の戦い」に関しても、正史にはわずかしか記述がない。なので我々が知るエピソードは「三国志演戯」によって生み出されたものである。

曹操が80万の軍勢を率いていていたり、黄蓋が火攻めを決行したときに、諸葛亮の祈祷により風が吹いたりと、かなりの脚色がされていて、正史との違いは大きい。しかし、戦いがあったことやその大まかな経過、勝敗の結果は史実の通りであるため、「三国志演戯」とは

『正史に根拠を置きつつ俗伝で装飾し、史文を考証しながらも大衆の好みに通じ、(中略)おおむね全ての出来事を包括している』
(wikipediaより引用)

という位置に置かれている。

今回の話の流れは正史に準じて書いたつもりだが、「わかりやすい」をテーマにしていることもあり、多少の脚色が織り込まれていることについてはご容赦いただきたい。

最後に

正直にいってしまえば私は中国史に疎い。しかし、曹操、劉備、孫権、諸葛亮といった名前だけは知っていたので、いつかこの戦いについても調べてみたいと思っていた。

そこでぶつかったのが「人名」や「地名」の多さとわかりにくさである。似たような名前、地名と地図が頭の中で合致しないという悩み。
今回は、自分なりに「わかりやすくまとめてみた」のだが、読者にも伝われば幸いである。

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