正史と演義で描かれ方の違う姜維
同じ「三国志」と名の付くコンテンツでも、正史と演義では描かれ方が大きく違う者が多数存在する。
また、歴史の研究が進むにつれて人物に対する解釈や評価が大きく変わる場合もあれば、賛否両論の人物像に対して長年議論されている者も存在する。
そして、三国志ファンの間でも特に賛否両論議論が交わされているのが姜維伯約(きょういはくやく)である。
演義では最終盤の主役として活躍し、コーエーテクモゲームスの『三國志』シリーズでは全てのパラメータが高く、能力の合計値が全体10位にランクインするなど(登場が遅いため活躍するシナリオは限られているのがやや難点だが)知勇兼備の頼れる万能武将として存在感を放っている。
また、グラフィックもいわゆる「イケメン」の若者としてデザインされているめビジュアル面の人気も高い。
しかし、正史で描かれた姜維は演義のように蜀のために最後まで戦い抜いた名将とは掛け離れた姿が描かれており、姜維の評価を巡って議論がされている。
今回は、賛否両論という言葉が相応しい姜維の知られざる一面を調べてみた。
姜維の生い立ち
姜維は、202年に魏の天水で生まれた。
早くに父の姜冏を戦争で亡くしているが、姜維の家庭は地元の豪族であったため父の功績とともに姜維も取り立てられるなど血縁主義の中国らしい出世をしている。
演義では第一次北伐に魏の武将として登場し、魏に攻め込んだ蜀軍を手玉に取る文武両道の武将として華々しいデビューを飾っている。
一方、史実では魏の武将として演義のような活躍は描かれていない。
諸葛亮(孔明)が天水周辺の地域を攻め落とすと、天水太守の馬遵は姜維達配下が蜀と内通していると疑い、その結果、姜維は魏軍から追い出され、やむなく蜀に降伏したという簡単な記述しかない。
演義では話を膨らませて、父を亡くした事が強調され、女手一つで育ててくれた母を支える孝行息子として描かれており、自軍から閉め出されて途方に暮れている中で現れた、蜀軍に保護された母親の説得によって蜀に降伏する事になる。
加入の経緯こそ違うものの、蜀の主力として活躍するのは正史でも演義でも一致しているが、演義に於ける姜維のイメージとして定着している「孔明の後継者的存在」という立ち位置ではなく、史実ではあくまで孔明が高く評価していた武将の一人に過ぎない。
また、蜀軍は街亭の戦いで敗れた後、姜維は母親とは離れ離れになっており、蜀に引き上げた姜維は魏に残った母親から魏に戻るよう手紙を送られている。
それに対して姜維は、自分は蜀で出世したいと断っており、それ自体は全く責められる事ではないが、母親を最優先にする孝行息子という演義のイメージからはやや離れている。
蜀の大将軍へ昇進
孔明の死後、姜維はともに孔明の後を継いだ蒋琬(しょうえん)とともに北伐に出るが、大した戦果を挙げる事は出来なかった。
蒋琬の死後も姜維は北伐に出ようとするが、当時軍の実権を握っていた費禕(ひい)からは「丞相(孔明)が出来なかった事が我々に出来るはずがない」と反対されていた。
目立つ場面は多くないものの、費禕は有能な政治家である以外にも、姜維のブレーキ役として大きく蜀に貢献していた。
しかし、その費禕は253年に暗殺されてしまい、姜維が大将軍として蜀の軍を握る事になる。
繰り返される北伐と暴走
費禕の死によって姜維を止める者がいなくなってしまった蜀は、姜維主導による北伐を繰り返しては失敗し、蜀の国力を大きく衰退させる事になる。
蜀軍の兵士は当然蜀の国民であり、多くの国民を姜維の北伐によって失った事になる。
更に致命的だったのは、漢中太守だった魏延(ぎえん)が存命時に有事のため備えていた漢中の防衛軍まで北伐に回してしまい、蜀を守るだけの戦力はほとんど残っていなかった。
仮に姜維が専守防衛に専念していたとして、魏との戦力差を考えたらいつまでも蜀を守れたとは言い難いが、蜀の国力を最も浪費したのは姜維であり、姜維の暴走が蜀の滅亡へと繋がった。
蜀滅亡の「戦犯」は?
それを考えると蜀滅亡の「戦犯」は、演技に於いて徹底的に「無能キャラ」として描かれあっさり魏に降伏した劉禅ではなく、魏との戦力差を顧みず、周囲の制止を無視して無謀な北伐を繰り返した姜維だとも言える。
孔明から重用されていたのは事実だが、演義に於ける姜維は孔明からの評価が高かったという点を必要以上に持ち上げられていたに過ぎない。
更に演義では、姜維の北伐が蜀に大きなダメージを与えた事を極力カットしている(無謀な北伐を続ける姜維の視点で描かれているため北伐によってどれだけ蜀の国力が衰退しているか分かりづらい)ため、演義で描かれている姜維ははっきり言って過大評価である。
最後の反乱 姜維と鍾会
劉禅が降伏して蜀が滅亡すると、姜維も魏に降服する。(姜維の場合は魏に戻ったという方が適切である)
しかし、姜維は蜀の再興を諦めておらず、鍾会(しょうかい)とともに反乱を企てる。
手始めに姜維と鍾会は蜀侵攻戦で大きな戦果を挙げた鄧艾(とうがい)を謀殺するが、自分の命の危険を感じ取った魏の武将から逆に襲われ、反乱を起こす前に二人とも命を落とす事になる。
いい意味でも悪い意味でも蜀のために生きた姜維の生き様はフィクションの世界では美化され、演義ファンの間では人気が高い。
その一方で、演義では描かれていない史実の姜維を紐解くと蜀を滅亡へと追い込んだ戦犯の一人でもある事から、人によって大きく評価が分かれる武将でもある。
勿論、蜀の大将軍まで上り詰めただけに決して無能な人物ではなかったが、費禕が最後まで北伐に反対していたように、深刻な人材難に陥っていた蜀に於いて姜維だけ優秀であっても魏との戦力差を覆して勝利するのは不可能だった。
もしも姜維が魏の武将して人生を送っていればという仮定に正解はない(魏は人材が豊富すぎて逆に埋もれたまま終わっていたかもしれない)が、生まれた時代と仕えている国が違えば更に活躍出来ていた可能性があっただけに、色々な意味で勿体ない人生だった。
そして、何か一つ出来事が違えば大きく人生が変わっていたという歴史の面白さも感じさせてくれる。
最後に余談だが、反乱を起こす前に殺された姜維の遺体から一升枡(1.8リットル)ほどの巨大な肝臓が取り出されたとの逸話があるが、これは大袈裟な描写が好きだった当時の人の「遊び心」である。
この記事へのコメントはありません。