三國無双8に登場した謎の新キャラ 夏侯氏
コーエーテクモゲームスの人気シリーズである『三國無双』の最新作である8から登場した新キャラクターの一人に、張飛の妻の夏侯姫がいる。(『三國志』シリーズでは10から「夏侯氏」の名前で登場。ここでは夏侯氏と表記する)
あまり存在は知られていないが、夏侯氏の娘は二人とも劉禅に嫁いで蜀の皇后となっており、歴史的に見れば皇帝の義母である。
初見の読者は蜀の重要人物でありながら曹操の親類である「夏侯」という名字である事に違和感を覚えるが、夏侯氏は夏侯淵(かこうえん)の姪であり、元は魏の人間だった。
何故、魏(しかも曹操一族)の人間だった夏侯氏が張飛の妻となったのか?
今回は、魏と蜀の間に生まれた知られざる縁戚関係を紹介する。
張飛と夏侯氏の出会い
蜀の歴史を見ても皇后の母として重要な役割を担う夏侯氏だが、正史の記述は少なく、最も詳細に書かれているのは魏書に注釈を付けた「魏略」である。
200年、張飛は薪を拾っていた少女と出会う。
その少女は夏侯淵の姪(名前が伝わっていない弟の娘)であり、張飛は連れ帰って妻にする。(曹操と袁紹の戦闘中に外に出る余裕はあったのか、曹操の領地で出会ったのであれば張飛はどうやって敵の領地に入れたのかといった疑問は多々あるが、張飛で検索すると何故か出て来る「ロリコン」というワードはこのエピソードから来ている)
夏侯氏が襲われていたところを張飛が助けたという説もあるが、書かれている情報が少なすぎるため想像で補うしかない。
ゲームの『真・三國無双8』では、夏侯氏が散歩中にゴロツキに襲われたところを、張飛が助けたのが二人の出会いになっている。
一人で散歩していたのはともかく、時代が劉備の荊州時代で、しかも敵対勢力である劉備の領地までわざわざ出掛ける理由が分からないが、キャラゲーらしい独自のストーリー展開はゲームとして楽しめる。(夏侯氏は自他共に認める超箱入り娘という設定だが、張飛に従って戦場に赴いた上に、プレーヤーの腕次第では1000人斬りの大暴れという張飛以上の大戦果を挙げている事は気にしてはならない)
蜀皇帝の義母へ
まともな記述がない分、自由に想像出来るのはゲームの制作側にとってありがたい話であり、張飛と夏侯氏が恋に落ちて結婚するまでの過程を一つの物語として描かれている。
張飛と夏侯氏がゲームのように仲が良かったかは不明だが、二人の間に出来た娘二人が蜀の二代目皇帝である劉禅の妻として皇后になったため、夏侯氏は皇帝の義母となる。(忘れがちだが、夏侯淵と夏侯氏は曹操の親戚であるため、遠縁ではあるがこの結婚によって劉備と曹操は両者の死後に縁戚関係となっている)
気になる二人の娘だが、姉の敬哀皇后が237年に亡くなり、その後に妹の張皇后が迎えられ、蜀が滅亡した時は劉禅とともに張皇后も洛陽へと連れて行かれたとしか書かれておらず、義母の夏侯氏同様、劉禅との関係が全く分からない。
『三國無双』では張飛の娘として星彩というキャラクターが登場するが、二人の娘のどちらかが星彩と名乗っていた訳ではなく、ゲームだけに登場する「星彩」というオリジナルの存在である。(『三國志』では12から敬哀皇后が張氏として登場しているが、張皇后は登場しない)
劉禅の子供に関しても姉妹のどちらかが産んだとも書かれておらず、皇后という重要な存在でありながら詳しい事は全く分からない、謎の家系である。(実のところ、張姉妹に限らず皇后の記述は乏しいのが大半であり、演義では主役級の活躍を見せている張飛も正史で大した事は書かれていない)
証拠がないため現代には伝わっていないが、劉禅と皇后姉妹の子供が生まれていた場合、劉備と曹操(一族)の血を引く超サラブレッドとなっていた。
伯父と夫の死
夏侯氏の伯父であり、父親代わりでもあった夏侯淵は魏の名将として有名だったが、219年に定軍山の戦いで戦死している。
魏略には夏侯氏が夏侯淵の遺体の引き取りと埋葬を願い出たと書かれており、勝利に盛り上がる蜀軍の中で、夏侯氏が悲しみに暮れていたのは想像に難くない。
そして、夏侯淵の死から僅か2年後に張飛も部下によって殺され、夏侯氏は最愛の人を立て続けに失う事になる。
ちなみに、娘が劉禅の妻となったのは劉備の即位後(張飛は当時存命)であるため、演義のように劉備の死後皇后として立てられた訳ではない。
夏侯氏は生没年も書かれていないためいつ亡くなったのか分からない(張飛より先に亡くなっていた可能性もゼロではない)が、曹操一族の血を引く娘が蜀の皇后になった事が後の歴史に大きな影響を与える事になる。
魏と蜀を動かし続けた陰の大物
夏侯淵には多くの息子がいたが、その中でも特に有名なのが夏侯覇である。(夏侯淵の息子達は夏侯氏とは従兄弟関係にあたる)
功臣の息子という事もあって夏侯覇は魏で優遇されていたが、249年に司馬懿のクーデターによって政権が乗っ取られると、夏侯覇は命を狙われる立場になる。
ここで夏侯覇が目を付けたのが、従姉妹である夏侯氏の娘が皇后として暮らす蜀だった。
当時の中国は徹底した血縁主義であり、自分の親戚が皇后である蜀は夏侯覇の亡命先として最適だった。
いつ殺されてもおかしくない状況にいた夏侯覇としては、魏から脱出するためにも、異国で出世するためにも、自分の血筋を利用しない手はなかった。
(大元を辿ると曹操の家系に繋がるが)皇后の母親の従兄弟という関係でもツテにはなるため、夏侯覇は蜀でも優遇され、すぐに車騎将軍(皇帝の外戚にあたる人物が就任する)に任じられている。
もっとも、蜀の武将となった夏侯覇の活躍はほとんど書かれておらず、255年の姜維の北伐に従軍して王経を破った(最終的に北伐は失敗して撤退)と書かれているだけで、夏侯覇は259年までに亡くなったというこれまたアバウトな内容になっている。(魏に置いていかれた夏侯覇の家族は夏侯淵の功績もあって流刑で済んでおり、夏侯淵と夏侯氏の血は魏と蜀に分かれた一族を救っていた)
残念ながら蜀で夏侯一族が勢力を作る事はなかったが、魏と蜀の縁戚関係の立役者といっても過言ではない夏侯氏は、歴史では語られない存在でありながら両国を大きく動かし続けた陰の大人物だった。
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