数字を見ると分かる後漢皇帝の異常な年齢
三国志の舞台となる後漢は、西暦25年の成立から220年の滅亡まで14人の皇帝が存在した。
後漢の195年の歴史で14人の皇帝(平均在位13.9年)という数字が多いか少ないかは、乱世という時代背景もあって簡単に判断は出来ないが、各皇帝の経歴を見て最も目に付くのは即位した時の「異常な若さ」である。
初代の光武帝、二代目の明帝はそれぞれ30過ぎで即位したが、それ以降は20歳を過ぎて即位した皇帝は皆無であり、19歳で即位した三代目の章帝が即位当時三番目の「年長者」という有り様だった。
また、平均在位年数が14年に満たないという事実からも分かる通り、若くして即位した皇帝が30歳になる前にこの世を去る(殺される)というケースもザラであり、皇帝のほとんどが皇帝として機能していない状態だった。(献帝の31年という在位年数は既に皇帝が形だけの存在となっていたので、成人した後もわざわざ命を狙う必要がなかったからである)
後漢は皇帝が子供であるのをいい事に宦官と外戚が権力争いを繰り広げられた時代であり、章帝以降で皇帝らしい皇帝を探す方が大変だが、献帝から遡って歴代の皇帝を見て行くと、後漢で最後に皇帝としてた機能していたのは11代皇帝の桓帝(かんてい)である。
今回は、37年の短い人生ながらも22年という長きに渡って皇帝として君臨した桓帝の生涯と、後漢のその後に与えた影響を紹介する。
名ばかりの皇帝即位
桓帝こと劉志が即位した経緯だが、当時の皇帝である質帝(しつてい)が外戚の梁冀(りょうき)によって毒殺されたところから始まる。
質帝はまだ14歳と若く、政務能力のない皇帝に代わって梁冀が支配していた。(子供の皇帝に代わって外戚が政務を執り行うのは珍しい話ではないが、政権を私物化した梁冀の暴走は政治ではなく「支配」という言葉の方が適切だった)
それを不満に思った質帝が梁冀を「跋扈将軍(ばっこしょうぐん)」と揶揄するが、それがきっかけとなって質帝が毒殺されてしまう。(※跋扈とは、のさばりはびこること)
やりたい放題の梁冀は更に権力を強化すべく、劉志を時期皇帝に擁立する。(梁冀が劉志を選んだ理由は書かれておらず、もう一人の皇帝候補だった劉蒜よりも扱いやすそうだったからという説もある)
僅か16歳で即位して桓帝となった劉志だが、政権の支配者は相変わらず梁冀であり、皇帝の地位は名ばかりのものだった。
梁冀討伐
梁冀は妹の梁女瑩を桓帝に嫁がせて皇后にすると、一族の人間を朝廷の要職に据えて支配を更に強化する。
梁冀に逆らう者は容赦なく殺される恐怖政治は桓帝が成人した後も続き、いつ終わるとも知れない梁冀の支配する世界を誰もが恐れていた。
腐敗した現状を打開するべく、桓帝は単超を初めとする宦官グループとともに梁冀を滅ぼすために動き出す。
桓帝と単超は梁冀の屋敷を包囲して自殺に追い込むと、一族も皆殺しにして政権の癌であった外戚を一掃する。
宮中は梁冀の一族で固められていたため多くの者が処刑、もしくは追放の対象となり、粛清によって宮中が空になったと伝えられている。(宮中を身内で囲みながら自身の討伐計画を察知出来なかった梁冀と親族の情報収集力や警戒心に疑問は残るが、少しでも情報が漏れたら殺されてしまう中で、周囲を敵に囲まれながら情報を一切漏らさず計画を成功させた桓帝と単超の実行能力と運はもっと評価されるべきである)
宦官と外戚の争い
梁冀から政権を取り戻した桓帝は、協力してくれた宦官に恩賞を与えるとともに、彼らを優遇するようになる。
ここから後漢は宦官の時代となるが、今度は「清流派」と称する外戚や名士が反発する。
歴史的に長く対立して来た宦官が優遇された事に対して不満を持った清流派は、宦官を「濁流派」と呼んで更に対立を深めていた。(由緒ある家柄である自分達こそが正統派で「清流」と主張するのは現代人から見ると時代錯誤にしか見えないが、基本的に成り上がりが多かった宦官が権力を持つのは清流派として面白いものではなかった)
宦官と清流派は元々仲が悪かった上に、宦官が自身の権力強化のため賄賂などの汚職を行っていたため、清流派は宦官の悪事を訴える。
一方、清流派に訴えられた宦官は「自分達に対する誹謗中傷」と彼らを逮捕する。
汚職の常習犯という意味ではどっちもどっちだったが、桓帝は宦官寄りの立場であったため清流派が処罰を受ける事になる。
逮捕された清流派は宮中追放という軽くない処分を受けるが、職を追われたとはいえ命だけは助けられた事もあり「自分は清流派と証明された」と喜ぶ者もいたという。(なお、この事件を「第一次党錮の禁」という)
桓帝の与えた歴史的影響
第一次党錮の禁の2年後に、桓帝は37歳の若さでこの世を去る。
146年の即位から168年に崩御するまでの在位年数22年は後漢では献帝に次ぐ記録であり、後漢在位最長記録を誇る献帝が完全に名前だけの存在だった事を考えると、桓帝は事実上最も長く在位した皇帝だった。
そして、桓帝の死後は宦官と清流派の争いが激化して、翌年には清流派による宦官排斥運動が起きる。
結局、清流派の反乱は失敗に終わり、今度は彼らに死罪という重い処分が降る。(第二次党錮の禁)
第一次党錮の禁の処分を見ても分かる通り、基本的に宦官寄りの立場であったものの、宦官を要職に就かせる一方で清流派の人間も重用するなど、桓帝は自身の政権内に於いて両者のバランスを取ろうと努力をしていた。
何とか両者を共存させようとしていた桓帝の存命時はまだ良かったが、桓帝の死とともに宦官と清流派の対立が激化したのは必然だった。
桓帝の後を継いで皇帝となった霊帝だが、第二次党錮の禁によって完全に権力を掌握した宦官の「操り人形」でしかなく、世間は更に混乱して黄巾の乱、そして三国時代へと向かう事になる。
梁冀の討伐以外で目立った実績はないが、桓帝は自分の意思で政治を行った最後の皇帝であり、後漢末期の宦官対外戚(清流派)という流れを作った意味では、歴史に大きな影響を与えた皇帝だった。
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