名門 諸葛一族に生まれた天才
三国志屈指の名門である諸葛一族は、それぞれ呉と蜀の重臣として活躍した諸葛瑾、諸葛亮の兄弟だけでなく、魏でも親類の諸葛誕が重用されるなど、仕える国は違えど三国での地位を確固たるものとしていた。(余談だが、ゲームの『三國志』シリーズでも諸葛一族は揃って優秀なステータスが与えられており、後世の評価の高さが伺える)
今回紹介するのは、呉の重臣として生涯を呉に捧げた諸葛瑾の息子の諸葛恪である。
口が達者な上に頭の回転も早く、父や叔父に負けない諸葛恪の才能や能力を示すエピソードは今日まで多数伝わっているが、その優秀さが傲慢な性格の元凶となり、自らの身を滅ぼす事になる。
今回は、現代にいればある意味人気者になれていた諸葛恪(元遜)を紹介する。
父の名誉を守った諸葛恪
呉の重臣の息子という事もあり、諸葛恪は幼少の頃か孫権や父である諸葛瑾の同僚と顔を合わせる機会が多かった。
ある宴の席で孫権が驢(ロバ)を連れて来ると、その額に「諸葛子瑜」と書いた。(ロバの顔に付けた札に書いたという説もあるが、今回は額に直接書いた事で話を進める)
諸葛瑾の顔が面長で「ロバ」と呼ばれていた事に対するジョークだが、人の身体的特徴をネタにするのは現代でも気分のいいものではないし、主君だからといって重臣をからかうのは許される行為ではない。(悪酔いした挙げ句酔い潰れた者に水を浴びせて再度酒を強要するなど、孫権は三国志でも指折りの「上司にしたくない男」だが、脱線する前に話を戻す)
三国志の漫画や小説で色々な呉の諸葛瑾は登場するけど、蒼天航路の諸葛瑾はビジュアル的インパクトが凄かった。 pic.twitter.com/DV7F6pdSZ7
— おはぎ (@ohagi2334) December 24, 2017
孫権の機嫌を損ねたくないから忖度したのか、人(しかも呉の重臣)を貶める品のないジョークで盛り上がれるほど呉の臣下の民度も低いのかは読む人の解釈によって分かれるが、諸葛瑾と諸葛恪の親子を除いて席は笑いに包まれる。
額に落書きされたロバにとっても気の毒かつ迷惑極まりない話だが、一番腹を立てていたのは諸葛瑾でもロバでもなく、諸葛恪だった。
父を笑い者にされて怒り心頭の諸葛恪は、孫権に「このロバに二文字だけ加えさせて欲しい」と申し出ると、諸葛子瑜の下に「之驢」と加える。
これによってロバ顔だった諸葛瑾に対する揶揄から諸葛瑾のロバに意味が変わり、孫権を初めとした呉の面々は子供離れした諸葛恪の賢さと頭の回転の早さに驚き、その褒美として孫権と諸葛恪から「諸葛子瑜之驢」と落書きされたロバが諸葛瑾に贈られた。(なお、諸葛家のペットとなったロバのその後は不明である)
呉の天才から国家の嫌われ者へ
他にも有名な諸葛恪のエピソードとして、孫権から父と叔父のどちらが賢いか聞かれた諸葛恪は即座に「父です」と答えた。
当時から世間の評価は孔明>諸葛瑾であり、あえてそれに反する答え方をした諸葛恪は父である諸葛瑾に気を使ったのかと思われたが、彼の口から出た答えは「父は仕えるべき主君を知っており、叔父はそれが分かっていません」というものだった。(演義のイメージから孔明が過大評価されがちな一方で低く見られがちな諸葛瑾だが、彼も呉の重臣として確固たる地位を築いているため、はっきり言って過小評価されている。国内での出世こそ弟に譲っているが、個人の力量という意味では兄弟揃って高いレベルで互角だったため、父を立てるという個人的な感情を抜きしても、諸葛恪の言う通り諸葛瑾の方が勝っているという意見も冷静な視点で見れば間違っていない)
それを聞いた孫権は諸葛瑾と諸葛恪の親子を「藍田生玉」(家柄のよい家から賢明な子弟が生まれる)と称賛し、親子ともども重用するようになるが、孫権から褒められれば褒められるほど諸葛恪は付け上がるようになり、それが後に彼の身を滅ぼす事になる。
天才の最期
天才的な頭の回転の早さと口の上手さで孫権から気に入られた諸葛恪は、軍事面でも異民族討伐を成功させるなどの戦果を挙げ、政治的にも軍事的にも孫権からの評価は上がり続ける一方だった。
しかし、孫権の評価とは対照的に傲慢な性格(陸遜から「人を人と思わない性格を改めなさい」と言われるレベル)が災いして孫権以外の人間の評価は最悪だった。
実の父である諸葛瑾も諸葛恪の優秀さを認める一方で、この性格が将来的に自身と家族を滅ぼす事になると危惧し、241年に息子への不安を残しながらこの世を去る。(しつこいが、諸葛瑾の不安は的中する事になる)
孫権も諸葛恪の性格を問題視していない訳ではなかったが、個人としては非常に優秀であり、陸遜の死後は大将軍に昇進して武将としての地位を極める。
252年、死期を悟った孫権から後を任された人間の一人になると、諸葛恪の独裁を阻止するため排除しようとした孫弘を逆に殺して、呉に於ける自らの地位を揺るぎないものとする。
まだ9歳の子供である孫亮に代わって事実上の呉の支配者となった諸葛恪だが、決して悪政を敷いた訳ではなく、未納の税金の帳消しなど民衆から支持される政策を行ったため、諸葛恪の姿を一目見ようと呉では人だかりが出来るほどだった。
また、孫権の死に乗じて攻めて来た魏軍を撃退する(東興の戦い)など諸葛恪の快進撃は続き、当代屈指の天才は偉大な父と叔父を超えると言わんばかりの勢いで活躍を続ける。
もっとも、魏は領地を失った訳ではなく、数万人の犠牲以外は大した痛手ではなく、魏の一強は変わらなかった。
それでも、東興の戦いの勝利で気を良くした諸葛恪は、周囲が止めるのを無視して蜀と呼応して魏の合肥新城に侵攻する。
大軍で攻めて来た呉軍の攻撃に、寡兵の魏軍は耐えきれず、合肥新城落城も時間の問題となる。
そんな中、魏の張特が呉の諸葛恪に対して「城を100日守れば魏の法によって将兵は降伏しても罪に問われず家族も罰せられない。もう少しで100日が経ち我々は降伏するので、攻撃をやめてくれ」と懇願した。
諸葛恪はこれを信じ呉軍の攻撃を中止させたが、張特はその隙に城の補修をした。
血を流さずに城を手に入れるのは確かに理想だったが、張特の言葉が策であり、自分が騙された事に気付いた諸葛恪は猛攻を仕掛けた。
しかし合肥新城は補修されて攻撃が難しくなり、呉軍内部では疫病が流行り多くの死者が出たため、諸葛恪は撤退を決意する。(諸葛恪の呼び掛けに応じて兵を出した蜀の姜維も呉の撤退と同時に引き上げている)
この大敗によって諸葛恪の権威は失墜するが、反省するどころか、自分が不在だった時に決められた人事を覆そうとするなど、自分に対する権力を更に強化しようとしたため、元から皆無だった人望は諸葛恪への「殺意」となる。
孫家一族の孫峻(そんしゅん)は、かつて諸葛恪を高く評価し、孫権に対しても「朝臣に諸葛恪に及ぶものなし」とまで述べて諸葛恪の出世を後押しし、諸葛恪が暗殺されそうになった時も救った人物だったが、独裁色を強くする諸葛恪と激しく対立するようになっていった。
孫峻は一計を案じ、諸葛恪を宴に呼び出すと、勅命と称して自らの手で諸葛恪を惨殺。一族も皆殺しにした。
幼少からその名を呉に知らしめ、父や叔父を上回るほどの才能と可能性を感じさせた稀代の天才の呆気ない最期だった。(なお、孫峻も諸葛恪の死から3年後に38歳の若さで病死しているが、体調を崩す直前に諸葛恪に殴られる夢を見たという)
諸葛恪の性格がまともなら
諸葛恪の生涯を辿ると、性格的に問題のある描写はいくつも見られるが、人付き合いはともかく、生涯を通じて「大失敗」といえるものは合肥新城での大敗しかない。(意外にも諸葛恪の政治に関する失敗は一つもない)
「才能に優れ呉の事実上の支配者となったが、たった一度の失敗で全ての信頼を失い殺された男」という事実だけを文章にすると「悲劇の天才」のように見えるが、誰からも嫌われていた諸葛恪の性格を考えたら彼の最期に同情の余地はない。
ただ、51歳という年齢は一見すると早死にに見えるが、周囲が敵だらけの環境に身を置いていた事を考えたらむしろ長生きしたと見るべきであり、決して隙を見せない優秀さの証明とも言える。
後世の諸葛恪の評価は識者の間ではほぼ一致しており、誰もが認める天才と呼ぶに相応しい才能を全て台無しにした性格が悔やまれる。
あまり想像は出来ないが、諸葛恪が謙虚さと相手に対する敬意を持った、才能に見合う性格の持ち主であれば、孔明どころか曹操に匹敵する大人物になっていた可能性は十分あった。
色々な意味で残念な人間ではあったが、歴史を変える可能性を持っていた天才として諸葛恪は独特の存在感を放っている。
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