生まれるのが早すぎた天才
諸葛瑾、諸葛亮の諸葛兄弟に親類の諸葛誕を含めた諸葛一族は、魏、蜀、呉の三国でそれぞれ重用された三国志屈指の名門である。
そんな諸葛一族から呉の重臣として仕えた諸葛瑾の息子である諸葛恪は、子供の頃から数々の逸話を残し、叔父に負けない才能を感じさせる「大器」だった。
もっとも、諸葛恪は天才的な才能を傲慢な性格が潰してしまい、孫峻(そんしゅん)に殺されて51歳の短い生涯を不本意な形で終える事になる。
今回は、諸葛恪の残した天才エピソードを紹介するとともに、彼が現代社会に生きていたらというifを考察する。
どちらも出るところは?
ある日、当時の呉の皇太子だった孫登は諸葛恪に対して「お前は馬の糞でも食ってろ」と言った。
太子嘗嘲(諸葛)恪「諸葛元遜可食馬矢」恪曰「願太子食鷄卵」(孫)權曰「人令卿食馬矢、卿使人食鷄卵何也?」恪曰「所出同耳」權大笑。(『三国志』諸葛恪伝注引『諸葛恪別伝』)
「馬矢」という言葉の意味にも諸説あるが、少しは私に忠誠を見せろという意味で解釈される事もあるので、今回はその説を前提に話を進める。
それに対して諸葛恪は「それなら太子は卵を召し上がったらいかがですか?」と返した。
ここから何故か孫権が出て来て、諸葛恪は発言の真意を問われるが、彼の口から出たのは「どちらも同じところから出ます」という言葉だった。
即座に言い返せる諸葛恪の頭の回転の速さはさすがだが、若いのに常日頃からこんな事を考えて生きていたら「いい死に方はしないよ」と心配になってしまう。(周囲を敵に囲まれながら51歳まで生きたのは早死にしたように見えてむしろ長生きしたとも言えるが、その判断は難しい)
飲まない老人の飲ませ方
主君として自分をかわいがってくれる孫権と、父親である諸葛瑾以外、例え皇太子の孫登であっても何か言われたら一言言い返さなければ気が済まない性分だった諸葛恪だが、自分よりも遥かに偉い、呉の重臣が相手でも彼の態度は変わらなかった。
ある宴の席、呉の臣下に酒を注いで回っていた諸葛恪だが、既に酔いが回っていた張昭は「年寄りに酒を無理強いするものではない」と拒否した。
飲みたくないという人間に酒を強要するのは良くないが、元から張昭と仲が悪く、酒を飲まない者には更に厳しい孫権からすると、酒の席で飲まないのは最も許せない行為だった。
孫権から何としても張昭に飲ませるよう命令を受けた諸葛恪は「師尚父(太公望)は90過ぎになっても陣頭に立ち、年齢を理由に役目を放棄する事はしませんでした。張昭殿はもう戦場には出ていませんが、宴では先頭に立って貰おうとしているだけであって、老人を大切にしていない訳ではありません」と話し、張昭は飲まざるを得なくなった。(呉の文官筆頭というイメージが強いが、40代までは張昭も戦場に立って軍を指揮していた)
孫権の天敵として、生涯を通して争い続けた張昭が一言も言い返せず黙って飲む様を見て、孫権がいつも以上に上機嫌だったのは言うまでもない。
鳥の名は。
呉の宮殿に、頭の白い鳥がやって来た。
「あの鳥は何というのだ?」と孫権が聞くと、諸葛恪は「白頭翁です」と答えた。
「白頭翁」と検索しても出ないので、諸葛恪の言葉は完全なデタラメだったが、その場に居合わせた張昭は、自分が馬鹿にされたと思い込んでいた。(本当に諸葛恪が張昭を揶揄した可能性もゼロではない)
「白頭翁という名の鳥は聞いた事がないが、その対となる白頭母は何処にいるのかな?」
張昭としては、存在しない鳥の名前を出して諸葛恪を困らせたいところだったが、諸葛恪は「鸚母(オウム)はいても鸚父という鳥は聞いた事がありませんが、何処にいるのですか?」と返した。
諸葛恪に無茶ぶりしたはずが、逆に笑い者にされてしまうなど、呉の重臣である張昭にとって諸葛恪は正に天敵だった。(ここで、孫権→張昭→諸葛恪という三竦みが出来たのは興味深い)
ロバは禁句
蜀の費禕(ひい)が使者として呉に来た時、孫権は宴の席では全員で費禕を無視するよう命じた。
当時の外交はなめられたら終わりの世界だったため、このように子供じみた行動も割とあったようだが、費禕は「鳳凰が来ると麒麟は食事をやめたというが、ここは『ロバ』かラバしかいないのか、みんな俯いて食べるばかりだ」とからかった。
この費禕の発言に反応したのは、やはり諸葛恪である。
例え孫権でも、ロバを引き合いに出して諸葛瑾を揶揄する事は許さなかった過去があるだけに、他国の使者から「ロバ」という言葉を使われては黙っていられない。(費禕にそこまでの意図があって件の発言をしたかは不明だが、諸葛恪に対して「ロバ」はNGワードだった)
諸葛恪は「鳳凰が来ると思って待っていたが、何故か燕雀がやって来て鳳凰を自称している。弾弓で射て追い返さねばなるまい」と、孫権の命令を破って費禕に言い返した。
費禕伝では、諸葛恪は費禕を論破出来なかったと書かれているが、諸葛恪別伝ではそれぞれ詩を作り合い、費禕は「麦の賦」を、諸葛恪は「磨の賦」を作ったという。
普通に飲んでいればここまで面倒な事態にならなかったため、孫権が悪いという結論になるが、費禕の皮肉に対して即座に言い返せる諸葛恪の論客としての才能はやはり天才的である。
諸葛恪が現代に生きていたら
今回は、諸葛恪の天才エピソードを紹介したが、この才能は三国時代よりも現代社会の方にマッチしていたという気がしてならない。
今はメディアやSNSなど、自分の意見や考えを述べるツールが無数にあるが、諸葛恪がそのツールを持っていたらどうなっただろうか。
ほぼ間違いなく問題発言の連発や舌禍事件を起こして、ネット上で「レスバ芸人」と揶揄される世界線しか見えないが、周囲の怒りと恨みを買って殺されるリスクは当時より圧倒的に低いだろう。(平和な日本なら諸葛恪にとって天国のような環境だっただろう)
政治家の必須スキルの一つである口の上手さが目立つエピソードが多いが、軍人としても優秀であり、戦場に出て異民族の討伐を成功させるなど、孫権のお気に入りというだけで偉くなった訳ではない。
余計な事を言うが、それ以上に仕事が出来る男であった事も忘れてはならない。
三国志でも異彩を放つ天才として後世に名を残す諸葛恪だが、当時よりも現代の方が活躍の場があり、本人も当時より快適に過ごせて、しかも長生き出来た可能性が高いのはある意味皮肉である。
1800年早く生まれた天才の活躍を現代社会で見たかった。
この記事へのコメントはありません。