横浜(神奈川県横浜市)の三大名所と言えば、みなとみらい(&赤レンガ)と山下公園、そして中華街でしょうか(もちろん異論は認めます)。
中華街に来たのであれば、是非ともお参りしたいのがこちらの横浜関帝廟(かんていびょう)。
ここにお祀りされている主祭神・関聖帝君(かんせいていくん)とは『三国志』ファンであれば誰もが知っているであろう関羽(かん う。字は雲長)であり、そのご利益は商売繁盛・交通安全・家内安全・入試合格とのこと。
貧民から漢王朝の末裔を自称し、蜀(蜀漢)の皇帝となった劉備(りゅう び。字は玄徳)を挙兵当時から支え続けた義弟であり、戦場では万夫不当の豪傑として大活躍した関羽ですが、どうしてこれらのご利益が備わったのでしょうか。
今回はその理由や、横浜関帝廟の歴史などについて紹介したいと思います。
関羽の生涯を駆け足で振り返る
その前に、関羽の生涯をざっくり辿ると、後漢王朝の延熹3年(160年)ごろに司隷河東郡解県(現:山西省)で誕生、幼少時から義侠心に篤く、地元で暴利を貪る悪徳商人を殺して幽州涿郡(現:北京郊外)へ逃亡しました。
やがて中平元年(184年)に黄巾党の叛乱が勃発すると、鎮圧の義勇兵として劉備と出逢い、舎弟であった張飛(ちょう ひ。字は益徳)と共に義兄弟の契りを交わして従います。
腕っぷし自慢だけど短気で血の気が多い弟の張飛に対して、関羽は常に冷静沈着で張飛以上の武勇を誇り、そんな凸凹コンビで何だか大物感はただようけどボンヤリとした劉備を支え、三人は寝床まで同じくするほどの絆で結ばれていました。
最初は負け続け、逃げ続けだった劉備を見捨てることなくどこまでもつき従い、一度は宿敵の曹操(そう そう。字は孟徳)に捕らわれるものの、それでも劉備への忠義は変わらず、義理を果たして無事に再会を遂げます。
やがて劉備が勢力を拡大し、益州(現:四川省一帯)へ乗り込むと、それまで基盤としていた荊州(現:湖北省一帯)の留守を守り、東の孫権(そん けん。字は仲謀)、北の曹操と対峙しました。
よく荊州を守り抜いた関羽でしたが、劉備の本隊が益州の統治にかかりきりであったことと、また曹操と孫権が共謀したことで関羽は孤立。計略によって孫権陣営に捕らわれ、建安24年(219年)に処刑されてしまいます。
「おのれ、よくも義弟を!」
怒りに駆られた劉備は周囲が止めるのも聞かず、章武元年(221年)に出陣。長江(揚子江)を下って孫権陣営に殴り込みをかけますが、あまりに深入りしすぎて兵站が途切れたところを逆襲され、大敗を喫してしまいました(夷陵の戦い)。
♪奪荊州 抗劉備 合曹操 共克襄樊
守夷陵 任陸遜 剿敵軍 火計破蜀膽……♪※乌龟「权御天下(意:孫権が天下を御する)」より
【意訳】
(関羽から)荊州を奪い 劉備に対抗すべく曹操と力を合わせ 共に襄樊で戦い
夷陵を守り 陸遜の指揮で蜀漢の敵軍を火刑で撃破する
必死の思いで長江をさかのぼり、這々(ほうほう)の体で益州へ逃げ帰った劉備はやがて病没、物語は新たな局面を迎えるのですが、それはまた別のお話し。
関羽が与えてくれるご利益4つ
……さて、以上ごく駆け足で関羽の生涯を辿って来ました。ここからは関聖帝君のご利益について、その理由となるエピソードを調べてみましょう。
【ご利益その1・商売繁盛】
関羽は忠義に篤く、人の信頼を裏切らなかったことから、商売に最も大切な信頼をまっとうさせる神様として崇敬されたそうです。
また、伝承によれば日本でいう大福帳を発明したのが関羽だそうで、それまでは記憶や約束だのみであった掛(かけ。ツケ)商売をきちんと記録することで、トラブルを解決しました。
【ご利益その2・交通安全】
先ほど紹介した通り、関羽は一度曹操に捕らわれ、後に生存が確認できた劉備の元へ帰還しています。
これがいわゆる関羽の「千里行(せんりこう)」で、その道中には多くの敵(曹操の部将たち)が立ちふさがったものの、これを見事に突破。
そんなエピソードから、無事に家へ帰れる交通安全のご利益を得たと言います。
【ご利益その3・家内安全】
関羽は幼少時より父母に孝養を尽くし、劉備や張飛との絆も固く、そして妻や子供たちを大切にしました。
長男の関平(かん へい。字は不詳。一説に養子)、次男の関興(かん こう。字は安国)らも父の勇名に恥じぬ活躍をしており、子供の健やかな成長なども期待できそうです。
【ご利益その4・入試合格】
関羽の家は文人の家系だったと言い、関羽もその血を受け継いだのか博学で、『春秋左氏伝(※)』を好んでその内容をほとんど暗記していたと言います。
(※)しゅんじゅうさしでん。孔子の編纂した歴史書『春秋』を弟子の左丘明(さ きゅうめい)がダイジェストしたもので、後世の学問に大きな影響を与えました。
それほどまでに勉強すれば、きっと入試も合格できる……関羽の努力にあやかろうと、多くの人々が願いを込めていることでしょう。
横浜関帝廟の歴史と、ほかの神々
横浜に関帝廟が創建されたのは横浜開港からまだ間もない明治4年(1871年)、当時移り住んできていた華僑たちが心のよりどころとしたのが始まりです。
しかし大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊し、再建された二代目関帝廟も昭和20年(1945年)の戦災で焼失。
三代目の関帝廟は昭和61年(1986年)の不審火で焼失、平成2年(1990年)になって四代目となる現在の関帝廟が落慶しました。
倒れても焼け落ちても復活を遂げる関帝廟の姿に、人々は胸の中に生き続ける関羽の志(天下泰平の願い)を新たにし続けたのです。
ちなみに、関帝廟には主祭神である関聖帝君のほかにも玉皇上帝(ぎょくこうじょうてい)、地母娘娘(じぼにゃんにゃん)、観音菩薩(かんのんぼさつ)、福徳正神(ふくとくしょうじん)が祀られています。
【それぞれのご利益】
玉皇上帝……天上からすべてを統治する至高神
地母娘娘……古代神話の地母女神で、健康長寿や災害保護
観音菩薩……日本でもお馴染みの観音様、お慈悲を下さる
福徳正神……土地神様で、財産を築き上げる
また、関聖帝君の傍らには生前に近侍していた周蒼(しゅう そう。字は不詳)と関平も付き従い、共に武神として主君の威徳を守り続けています。
終わりに
問:関羽はどうして商売繁盛の神様になったの?
答:商売に大切な信義に篤く、また大福帳の発明で商業に貢献したから
※俗説では「算盤も発明した」と言われているとか。
こうして現代でも多くの参詣者でにぎわう横浜関帝廟。筆者もその遺徳を崇敬する一人として、折にふれて足を運んでいます。
何かと信義よりも利権が横行する世の中ですが、私たちが少しでも義に篤く生きられるよう、いついつまでもお見守りいただきたいものです。
※参考:
横浜関帝廟(公式サイト)
井波律子『三国志演義 (岩波新書)』岩波新書、1994年8月
仙石知子ら『三国志演義事典』大修館書店、2019年6月
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