今回は、三国時代に登場したと言われている様々な兵器に注目していきたい。
戦争は技術を大きく進化させると言われているが、1800年以上前の中国の三国時代においても様々な兵器が登場している。
曹操が考案したとされる『霹靂車(へきれきしゃ)』をはじめ、攻城戦で必須の『衝車(しょうしゃ)』、城門や城壁を乗り越える『雲梯車(うんていしゃ)』、動く櫓の『井闌車(せいらんしゃ)』、さらには戦車と名がつく『虎戦車(こせんしゃ)』まで、多くの兵器が使われたとされている。
はたして、このような兵器群は本当に実在していたのだろうか?
曹操が考案した『霹靂車』は存在しない!?
曹操が考案したとされる『霹靂車』は、実は三国志演義以外では存在しない名称である。
実際は「投石機」や「発石車」と呼ばれており、紀元前5世紀ごろの中国では既に存在していた。また、紀元前の時代から世界のあちこちに存在しており英語では「カタパルト」として有名な兵器だ。
この投石機が最も強い存在感を発揮したのは、曹操と袁紹の決戦『官渡の戦い』である。
袁紹軍は序盤の戦いで主力の顔良・文醜を失ったが、曹操軍が長期戦において不利なことを見抜き、多くの井闌で城を囲み地下道を掘り始めた。
曹操軍はじりじりとした袁紹軍の攻めに苦戦したが、逆転の決め手となったのが井闌車を破壊するために作られた霹靂車だった。
曹操軍は霹靂車の登場によって優勢になり、袁紹軍の許攸の投降から始まる烏巣への兵糧庫奇襲に繋がり、大逆転勝利を収めたのである。
『井闌』は春秋戦国時代からあった
『井闌(せいらん)』は前述した『官渡の戦い』で、袁紹が曹操軍を押し込むために使用した攻城兵器である。
物見櫓としての機能も果たすが、上部には弓兵が配置されて城壁を守る兵士を射貫くなど、便利な攻城兵器として活躍した。
この井闌は、秦の始皇帝に仕えた王賁将軍が使用していたという記録があり、紀元前の春秋戦国時代から存在した攻城兵器である。
三国時代よりも400年近く前から使われていたとは驚きである。
城門を打ち破る『衝車』
『衝車(しょうしゃ)』は、『破城槌(はじょうつい)』、『攻城槌(こうじょうつい)』、または『衝角(しょうかく)』とも呼ばれ、城門や城壁を破壊するために作られた攻城兵器である。
この兵器は、大砲が攻城兵器の主流になる中世後期まで使用されていた。
三国時代における『衝車』は、丸太を横倒しにして先端を尖らせ、車輪を取り付けて自由に移動ができる構造となっていた。
しかし上からの攻撃に弱かったため、三角の屋根を取り付けるなど工夫が行われた。
また、丸太の先端をより鋭利にし、威力を増すために金属で覆うといった改造も随所で行われていた。
『雲梯車』も春秋戦国時代にあり
『雲梯車(うんていしゃ)』は、城壁を乗り越えるための折りたたみ式の梯子(はしご)がセットされた攻城兵器だ。
使用方法はシンプルで、城壁に近づけたら梯子を引っ掛けるように延ばすだけである。(消防車のはしごに似ている)この兵器を使えば兵士が城壁を乗り越えて突入できるが、城壁に近づき梯子をかけて登って行くまでの間の生存率は高くなかっただろう。
『戦国策』や『墨子』にも登場しているが、名前が異なり『公輸盤』や『公輸班』、または『魯班』といった呼ばれ方をしている。
この兵器も春秋戦国時代に登場しており、三国志では第二次北伐の際、諸葛亮が陳倉城攻めに使用した攻城兵器の一つとして知られている。
さすがに架空の『虎戦車』
『虎戦車』は、三国志ファンの間で実在が疑われ続けている兵器だ。
『虎戦車』は張り子の虎のハリボテに人間が入り、まるで戦車のように動き回って口から火を噴くという、極めて非現実的な兵器である。
三国志演義では、諸葛亮の妻である黄月英が考案したとされているが、正史には登場しない。
結局、演義でも『虎戦車』はあまり活躍せず、南蛮攻めの際に猛獣を追い払うだけだった。
最後に
今回は三国志に登場した兵器について解説した。
古代中国の戦乱の中で使われた兵器は、時には幻想的な要素が加えられたものも少なくない。
しかし当時の人間たちがどのような兵器を使っていたのかを知ることで、その時代の厳しさや知略、戦術の奥深さに迫ることができるだろう。
参考 : 『正史三国志』『戦国策』『墨子』他
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