三國志

天才軍師・諸葛亮の子孫たちはどうなった? 【三国志】

天才軍師・諸葛亮の子孫たちはどうなった?

『三国志演義』における諸葛亮は、最強の軍師としてその名を轟かせています。

司馬懿周瑜陸遜などの優れた人材も存在しましたが、演義の中での諸葛亮は群を抜いています。

『正史』での諸葛亮は、そこまで頭一つ抜けた存在ではありませんが、優秀な政治家として記述されています。

諸葛亮の妻である黄夫人(黄月英)も才知ある人物として知られていることから、この夫婦からはさぞかし優秀な子供が生まれていそうです。

しかし、子供たちについてはあまり語られることがありません。

今回は、諸葛亮の子供たちに焦点を当ててみたいと思います。

諸葛亮の子どもたち

天才軍師・諸葛亮の子孫たちはどうなった?

画像 : 諸葛亮 public domain

諸葛亮には養子1人と実子1人、合わせて2人の子供がいました。

清王朝の考古学者・張澍の『諸葛忠武侯文集』には、長女や三男の存在が記されていますが、信憑性が疑問視されているため今回は取り上げません。

それでは養子と実子、それぞれのプロフィールを簡単にまとめながら、気になる点にも触れていきましょう。

養子

人名:諸葛喬(しょかつきょう)
:仲慎(ちゅうしん)⇒伯松(はくしょう)
生年:204年
没年:228年
父親:諸葛瑾⇒諸葛亮
息子:諸葛攀(しょかつはん)
主な参戦:特になし
関わりの深かった人物:諸葛亮、諸葛瑾、霍弋
三国志14パラメータ:統率58、武力23、知力75、政治68、魅力77

諸葛喬(しょかつきょう)は、諸葛亮の兄・諸葛瑾の次男として生まれましたが、諸葛亮によって養子に迎えられました。
養子になったことで、字は仲慎から伯松に変わっています。
これは、中国では長男には「」、次男には「」の字をつける習慣があったためです。

諸葛喬は将来を有望視されていましたが、228年にわずか25歳で病死しました。
彼の死は諸葛亮にとっては大きな悲劇であったでしょう。

また、諸葛喬は三国志演義には登場せず、正史にのみ記された人物です。

実子

人名:諸葛瞻(しょかつせん)
:思遠(しえん)
生年:227年
没年:263年
父親:諸葛亮
母親:黄月英
息子:諸葛尚(しょかつしょう)と諸葛京(しょかつけい)
主な参戦:蜀の滅亡に繋がる防衛戦
関わりの深かった人物:諸葛亮、黄崇、劉禅
三国志14パラメータ:統率69、武力57、知力72、政治68、魅力69

諸葛瞻(しょかつせん)は、227年に諸葛亮と黄月英の息子として誕生しました。

彼は若くして優れた才能を発揮しましたが、諸葛亮は兄の諸葛瑾に宛てた手紙で「早熟かもしれない」と心配の念を示していました。
諸葛亮は遠征続きだったうえ、234年に亡くなったため、彼が父親と共に過ごせた期間は数年もなかったかもしれません。

その後、諸葛瞻は蜀の滅亡につながる戦い(綿竹防衛戦)に参戦し、魏の鄧艾からの降伏勧告を断って、息子の諸葛尚と共に戦死しました。

諸葛亮の子孫たち

天才軍師・諸葛亮の子孫たちはどうなった?

画像 : 清代の書物に描かれた諸葛瞻(しょかつせん) publicdomain

諸葛喬諸葛瞻、どちらも早世していますが、その前に実子を残しています。
彼らの子孫が最終的にどのような系譜を辿り、どんな血統を残したのか、見ていきましょう。

養子である諸葛喬と、実子である諸葛瞻を分けて考察していきます。

●養子の諸葛喬の子供たち

養子である諸葛喬(しょかつきょう)には、息子の諸葛攀(しょかつはん)がいました。
諸葛攀の生没年は不明ですが、諸葛亮から直接教えを受けた可能性は高いでしょう。

しかし、253年に諸葛瑾の子である諸葛恪一族が誅殺され、諸葛瑾の家系が途絶える危機に瀕しました。

画像 : 諸葛恪 publicdomain

※諸葛恪については
諸葛恪 〜性格の悪さで身を滅ぼした天才【諸葛瑾の息子で諸葛亮の甥】
https://kusanomido.com/study/history/chinese/sangoku/46218/

その危機を感じた諸葛攀は呉に移り、諸葛謹の後を継いだのです。
その後、諸葛攀は行護軍・翊武将軍に昇進しましたが、若くして亡くなってしまいました。

諸葛攀の息子である諸葛顕(しょかつけん)は、蜀で国の滅亡を目の当たりにしましたが、戦死を免れて河東郡に身柄を移されています。

諸葛喬と諸葛攀は共に早世しているので、その評価は難しいものがあります。

諸葛喬は、かつて諸葛亮によって北伐の最前線に派遣されていたことから、実力は十分にあったことが推測できます。
もしもっと長生きしていれば、評価も異なっていたでしょう。

●実子の諸葛瞻の子供たち

諸葛亮の晩年に生まれた息子・諸葛瞻(しょかつせん)には、諸葛尚(しょかつしょう)と諸葛京(しょかつけい)という2人の子供がいました。

画像 : 清代の書物に描かれた諸葛尚の挿絵 publicdomain

長男の諸葛尚は、父である諸葛瞻と運命を共にし、蜀の滅亡を防ぎきれずに戦死しました。(綿竹防衛戦)

一方、若かったために戦に参加できなかった諸葛京は生き延びました。

諸葛京は成人後、に仕え、その子孫は現在も浙江省蘭渓市の諸葛八卦村に住んでいます。

諸葛亮の血筋は、諸葛京によって継承されたのです。

参考 : 『諸葛忠武侯文集』

 

アバター

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 三国時代の服装について調べてみた
  2. 費禕(ひい) メンタル最強の蜀の名臣 【正史三国志 〜蜀の終わり…
  3. 「リアル三國無双」張遼!正史に残る最強武将の生涯とは
  4. 関羽は本当に強かったのか?【活躍のどれが史実でどれが創作なのか】…
  5. 『水滸伝』の関勝、実在の武将だった「関羽の子孫?設定からしてフィ…
  6. 【三国志】 袁紹がエリートの証としている「四世三公」とはなんなの…
  7. 陳羣 ~「劉備が逃した魏の名臣」
  8. 伝説の名医・華佗 〜曹操に処刑された『神医』の失われた医術とは…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

【教皇vs皇帝】 皇帝が教皇に屈辱的な謝罪をした「カノッサの屈辱」

前回の記事「【カール大帝と西ヨーロッパの成立】 権威と権力の違いとは?」では、フランク王国による西ヨ…

小田原梅まつりに行ってみた

神奈川県西部にある小田原市。その東に「曽我の梅林」があり、「小田原梅まつり」が開催されている…

トミー・ジョン手術について調べてみた

トミー・ジョン手術について最近野球選手の間でよく聞かれる「トミー・ジョン手術」とは具体的にどうい…

児玉源太郎【自ら降格人事を受けて日露戦争に望んだ軍人】

唯一無二の軍人児玉源太郎(こだまげんたろう)は、幕末から明治の激動の時代を生きた軍人であ…

おでんの歴史と種類について調べてみた【鍋料理ランキング不動の1位!】

おでんのCMが流れ始めると「えっもうそんな季節?」となんとなく焦ってしまいませんか?夏の「冷やし…

アーカイブ

PAGE TOP