三国志初期の名将「堅パパ」
唐突な出だしになるが、呉という国の起源はいつからだろうか。
『三國志』や『三國無双』といったゲームの世界において、孫堅は呉の武将として登場し、孫策と孫権の父親である(諡は「武烈皇帝」である)ため、孫堅を呉の初代として捉えがちだが、孫堅を君主とするか否かの判断は難しい。
豫州刺史という肩書きは持っているが、三国志に於ける呉と呼ばれる地域を手に入れたのは孫策である。
孫堅は、黄巾の乱から後漢滅亡前後まで長生きした劉備、曹操と違い、領地を拡大出来ず序盤で早死にした不運を考慮する必要はあるが、領地の規模を見ても孫堅はあくまで無数にいる群雄の一人として見るのが妥当に思える。
そういう意味で孫堅を君主、更には呉の初代と評する事は難しいが、三国志初期に活躍した名将である事は間違いない。
今回は、堅パパと親しまれる孫堅について掘り下げていきたい。
海賊退治と自称皇帝討伐で出世
孫子の元祖である孫武の末裔を自称する孫堅が歴史の舞台に現れたのは172年、父親と訪れた銭唐県で海賊の略奪を目撃したところから始まる。(※孫堅の父親は孫鍾とされているが、自称孫子の末裔という家柄同様確たる証拠はないため、ここでは「父親」で統一する)
孫堅は父親に自分が海賊を退治すると言うが、二人旅だったので自由に使える兵もいない。
父親は孫堅を止めようとするが、孫堅は海賊の目に付く場所に立つと、大きく手を振って兵士が海賊を囲むようなジェスチャーを見せた。
前述の通り孫堅は手勢を連れておらず、言ってしまえばハッタリなのだが、自分達が包囲されると思った海賊は逃げ出し、孫堅は後を追って一人の海賊の首を持ち帰って来た。
この手柄により孫堅の名が知られるようになり、仮尉(警察、軍事を司る役職)に任命された。
同じく172年、会稽郡で許昌が反乱を起こす。(※紛らわしいが、この許昌は人名であり、地名とは一切関係ない)
陽明皇帝を名乗った許昌は、息子の許韶とともに乱を煽動し、その兵数は万単位にも及んだ。
乱は長期化するが、孫堅が参戦したところから流れが変わる。
自ら募った精兵1000人とともに孫堅が加わると形勢は一気に逆転し、討伐軍は反乱軍を撃破する。
174年、許昌親子の処刑によって2年にも及ぶ許昌の乱がようやく鎮圧されるが、最大の功労者は孫堅であり、反乱鎮圧の功績によって塩瀆の県丞に任命された。
董卓との出会い
184年に黄巾の乱が起こると、孫堅も参戦し、宛城を攻略する際は城壁を自ら登って場内に入り、勝利に貢献している。
186年、今度は涼州で辺章と韓遂が乱を起こす。
当初は董卓が鎮圧にあたっていたが、戦果を挙げられなかったため張温が指揮を執る事になり、孫堅は参軍として同行する事になった。
張温は責譲のため董卓を呼び出すが、呼び出しに遅刻した上にその態度も酷いものであったため、孫堅は3つの罪(※上を軽んじて無礼である、軍の士気を低下させた、功績を挙げられず呼び出しに遅刻した上に態度も悪い)で董卓を処刑するよう進言した。
しかし張温は、董卓の西方での影響力の強さを理由に孫堅の進言を却下する。
結局、この乱は漢の大軍が来ると聞いた辺章と韓遂が降伏したため呆気なく終わるが、後の歴史を見ると張温がここで董卓を斬らなかった事が、後漢最大の混乱を招く事になる。
反董卓連合のMVP
189年に霊帝が崩御すると、保護という名目で帝を手に入れた董卓は中国史上に残るほどの暴政を行った。(※反董卓連合が発足したのは190年だが、董卓は過去に張温と孫堅が自分を殺そうとした事を恨んでおり、191年に張温を殺している)
挙兵した孫堅は自身を冷遇した王叡や、進軍の邪魔をした張咨を斬りながら北上すると、袁術から破虜将軍代行、豫州刺史の上奏と支援を受ける。
しかし、実際の反董卓連合は演義で描かれるようなオールスター軍団ではなく、それぞれが足を引っ張り合う烏合の衆であった。
孫堅も苦戦を強いられるが、徐々に戦況を盛り返し、陽人の戦いでは華雄を斬り、反董卓連合不利だった流れを大きく変える。
この手柄を演義で関羽に奪われたのは過去に何度も書いているので触れないが、纏まりのない烏合の衆の中で活躍した孫堅は、間違いなく反董卓連合のMVPだった。
兵糧攻めの真実
講談である「三国志演義」をベースにした漫画『横山三国志』では、その後、孫堅の一人勝ちを恐れた袁術が兵糧の支援を止め、孫堅は敗走を余儀なくされる。
孫堅の快進撃で、董卓をあと一歩のところまで追い詰めながら待っていたまさかの裏切りに加え、挙げ句の果てには連合まで崩壊してしまったため、『横山三国志』の読者はハチミツ皇帝・袁術に怒り心頭だったと思うが、これには元ネタとなるエピソードがある。
呉の歴史を纏めた『江表伝』によると、孫堅と袁術の仲を割くため「孫堅が洛陽を得たら制御出来なくなる」と讒言する者がおり、それを信じた袁術は孫堅を疑って兵糧の輸送を止めてしまったという。
そして孫堅は袁術の元に赴き、過去の戦いで兵糧が与えた影響の大きさと、その重要性を説いた。
直談判の効果もあり、袁術から兵糧の支援が再開すると、孫堅の元に董卓から和睦の使者として李傕がやって来る。
董卓にとって孫堅は張温とともに自分を殺そうとした憎むべき敵ではあるが、破竹の勢いで迫る孫堅を前に、討伐から懐柔へ方針を切り替えたのだ。
董卓の出した条件は「子弟含め、刺史や郡守になりたい者を上表して用いる」という、孫堅や配下達にとって出世のチャンスであったが、董卓のこれまでの横暴と暴政を理由に孫堅はこれを拒否する。
孫堅の懐柔に失敗した董卓は、洛陽を焼け野原にすると、遷都という名目で長安に逃走する。
目標の董卓討伐まであと少しのところであったが、袁紹と袁術の仲違いなどもあり反董卓連合は解散となった。
孫堅の宝
孫堅は洛陽に残り、董卓によって廃墟と化した街の復興に尽力した。
孫堅は井戸で玉璽を発見したという有名なエピソードは、他の記述と矛盾する点が多いのでここでは割愛する。
ともあれ、董卓によって廃墟と化した洛陽を復興させた孫堅は「漢の忠臣」と称賛される事になり、その名声と、民から送られたであろう感謝の言葉は、孫堅の生涯に於ける宝となるのだった。
早すぎる死
孫堅が洛陽から引き上げて袁術の元に戻ると、袁術は劉表の統治する荊州を手に入れるために孫堅を派遣した。
劉表は黄祖を迎撃に向かわせるが、孫堅は黄祖を相手に有利に戦闘を進め、襄陽を包囲する。
黄祖は兵を集めるために夜に城を出るが、孫堅はそれを読んでおり追撃を行った。
孫堅は峴山(けんざん)に逃げた黄祖を追ったが、伏せていた黄祖の兵によって射殺され、孫堅軍は撤退を余儀なくされる。
反董卓連合で大きく名を挙げた名将の早すぎる死だった。
孫堅の閉ざした可能性
軍を率いる将が突出するのは危険であり、孫堅の過去の戦いを振り替えると自ら城壁を登って城を攻めるなど、己の身を省みない軽率な行動が多かった。
長男の孫策も、同じように一人で狩りに出たところを襲われて命を落としている。
孫堅が長生きしていたら、江東を手に入れて呉を建国したのだろうか。
また、袁術が孫堅と孫策を上手く使えていたら袁紹と二分する大勢力になっていたのだろうか。
歴史のあらゆる可能性を閉ざした孫堅の死は残念だったが、歴史のifを描けるゲームの世界では大活躍を続けている。
ファンから命名された「堅パパ」の愛称は現代もファンから愛されている証拠であり、こちらも紛れもない孫堅の宝物である。
「軍の指揮を低下させた」とは「軍の士気を低下させた」ですよね?
ご指摘ありがとうございます。修正させていただきました!