
画像 : アヘン戦争 イギリス東インド会社の汽走軍船ネメシス号に吹き飛ばされる清軍のジャンク兵船を描いた絵 public domain
19世紀半ば、中国は大きな動乱の時代を迎えていた。
アヘン戦争(1840年~1842年)で清朝は欧米列強に敗北し、国内では重税や銀の流出、農村の疲弊などで社会不安が高まっていた。
こうした中で広東・広西地方を中心に勢力を拡大したのが、洪秀全(こう しゅうぜん)が率いる「太平天国」である。
太平天国は、キリスト教思想を独自に取り入れた宗教結社「拝上帝会」を母体とする大規模な反乱政権で、最盛期には中国南部を中心に数千万規模の人口を支配したとされる。

画像 : 洪秀全(こう しゅうぜん)1860年頃に描かれた肖像画 public domain
その一方で、内部は苛烈な権力闘争に満ち、壮絶な戦争と虐殺を引き起こした。
そんな太平天国の歴史の中で、ひときわ異彩を放った女性がいる。
「太平天国で最も美しい女性」と呼ばれた、洪宣嬌(こう せんきょう)である。
美貌と知性、さらに政治力と軍事的才能までも兼ね備えた彼女は、女性が権力を持つことが稀だった時代に、義妹として洪秀全の側近にまで上り詰めた。
さらに女兵部隊を率いて戦場に立ち、太平天国の権力抗争に深く関わったとされる。
しかし、彼女の生涯は謎に包まれている。
天京事変では黒幕として名を残しながらも、太平天国崩壊後の消息は途絶えた。
今回は、太平天国で「最も美しい女性」と称された、洪宣嬌の知られざる生涯を追っていく。
農家の娘から「天父の娘」へ

画像 : 若い頃の洪宣嬌 イメージ 草の実堂作成(AI)
洪宣嬌(こう せんきょう、本名・楊雲嬌)は、19世紀初頭の中国・広東省花県(現在の広州市花都区)に生まれた。
客家(はっか)と呼ばれる移住民系の漢民族の一派で、裕福ではない農家の家庭だったとされる。
しかし、彼女は幼いころからその美貌と聡明さで周囲の注目を集めていたという。
幼い頃から学問に関心が強く、わずか7歳で『三字経』や『百家姓』を暗唱し、10歳になると毛筆で流麗な文字を書きこなすなど、農村では稀な才女として知られていた。
村の人々は「この娘は必ず大成するだろう」と噂し、彼女の将来を特別視する者も多かったと伝わる。
やがて10代半ばになると、その美しさは一層際立ち、村中の若者から縁談が相次いだという。
しかし彼女は、安定した結婚生活や富裕な暮らしには関心を示さなかった。
当時の清王朝の支配下で苦しむ民衆の現状や、不平等な社会に憤りを感じていたからである。
そしてこの頃、洪秀全らが設立した宗教結社「拝上帝会(はいじょうていかい)」と出会うことになる。
集会に参加するようになった彼女は、聡明さと表現力を活かし、村人たちにわかりやすく伝える役割を担うようになった。
そしてある日、「夢で天父(上帝)が現れ、自分に使命を授けた」と語り、信徒たちに大きな衝撃を与えた。
この「神秘体験」によって、彼女は「天父の娘」として特別な権威を与えられ、急速に地位を高めていく。
やがて洪秀全は彼女を義妹とし、「洪宣嬌(こう せんきょう)」という名を与えた。
この時点で、彼女はすでに単なる信徒ではなく、拝上帝会における重要な存在となっていた。
美貌と知性を兼ね備えた若き女性が、やがて太平天国の象徴的存在へと成長していく第一歩であった。
女将軍・洪宣嬌の誕生
洪宣嬌は「天父の娘」として宗教的権威を得ただけでなく、やがて軍事面でも存在感を示すようになる。
太平天国の勢力が拡大するとともに、洪秀全は組織の象徴として彼女を重用し、女兵部隊の指揮を任せた。

画像 : 洪宣嬌 イメージ 草の実堂作成(AI)
洪宣嬌のもとに集まったのは、数百人規模の精鋭女兵たちだった。
太平天国では纏足(てんそく)を禁じ、女性にも積極的に武器を取らせたため、彼女の部隊は俊敏な動きで知られた。
洪宣嬌自身も、剣術や弓術、馬術に長け、戦場では先頭に立って指揮を執ったとされる。
民間伝承ではあるが、広西・牛排嶺での「猪籠陣(ちょろうじん)」として語り継がれる逸話がよく知られている。
清軍提督・向栄の騎兵隊が大湟江口に迫ると、洪宣嬌はわずかな女兵を率いて迎え撃つことを決断した。
彼女は地形を利用し、竹で編んだ猪籠を大量に道に仕掛け、その周囲に深い落とし穴を掘る。
さらに女兵たちには鉄鉤付きの長竹を持たせ、竹林に潜ませた。清軍の騎兵が突撃してくると、馬の脚は猪籠に絡まり、次々と転倒。
そこへ潜んでいた女兵たちが一斉に飛び出し、馬上の兵を長竹で引きずり落としていった。
突然の奇襲に清軍は大混乱に陥り、壊滅的な敗走を余儀なくされた。
この戦功によって洪宣嬌の名声は一気に高まり、太平軍の士気を鼓舞する象徴的な存在となったという。
美貌だけでなく、知略と勇気を兼ね備えた「天国の女将軍」として、彼女は太平天国史に鮮烈な印象を残したのである。
天京事変と権力闘争

画像 : 天王・洪秀全の玉座(南京の洪秀全記念館) KongFu Wang CC BY-SA 2.0
1853年、太平天国軍は南京を攻略し、ここを「天京」と改称して首都と定めた。
以後、太平天国は最盛期を迎えたが、同時に内部では深刻な権力闘争が始まっていた。
天王・洪秀全は宗教的象徴として君臨していたが、実際の政務は東王・楊秀清(よう しゅうせい)がほぼ独占していた。
楊秀清は「天父下凡(てんぷげはん)」と称し、天父の意思を代弁する者として絶大な権威をふるい、軍政の実権を掌握していった。

画像 : 東王・楊秀清の銅像 Perinbaba CC BY 4.0
この専横的な態度は、北王・韋昌輝(い しょうき)や、翼王・石達開(せき たっかい)らの反発を招き、太平天国の首脳部は次第に分裂していく。
洪宣嬌も、この権力抗争の渦中にいた。
西王・蕭朝貴(しょう ちょうき)に嫁いでいた彼女は、王妃として高い地位にあったが、夫の戦死後は後ろ盾を失い、自らの影響力を保持するため積極的に政治の場へ関わっていったとされる。
やがて洪秀全は、東王・楊秀清の台頭を危険視し、密かに北王・韋昌輝に接近した。
この過程において、洪宣嬌が重要な役割を果たしたともいわれる。
彼女が洪秀全と韋昌輝の仲介役を務め、楊秀清を排除するよう促した、という説もある。
そして1856年、ついに太平天国の内紛「天京事変」が勃発する。
韋昌輝は軍勢を率いて、楊秀清の邸宅を急襲し、楊一族とその支持者を徹底的に粛清した。
犠牲者は数万人規模にのぼるとされ、この惨劇によって太平天国の首脳部は決定的に分裂した。
洪宣嬌自身がどの程度事件に関与したかは諸説あるが、彼女が韋昌輝と協調し、楊秀清排除の流れに影響を与えたことは確かである。
だが、この一連の動きは結果的に太平天国の求心力を大きく損ない、内部崩壊を加速させることになった。
「太平天国」とともに消えた美女
こうして「天京事変」によって、太平天国の中枢は決定的に分裂した。
東王・楊秀清を失ったことで軍政は混乱し、さらに韋昌輝・石達開ら、有力諸王も相次いで離反。
最盛期を誇った太平天国は、内部から崩壊していったのである。
洪宣嬌は、この権力闘争の渦中で微妙な立場に置かれていた。
西王・蕭朝貴の未亡人であり、洪秀全の義妹として象徴的存在ではあったが、天京事変後は楊派と韋派の双方から警戒され、次第に政治的影響力を失っていった。
そして1864年、ついに運命の時が訪れる。

画像 : 天京攻防戦 public domain
清軍の主力であった曽国藩(そう こくはん)率いる湘軍(しょうぐん、湖南省で編成された地方軍)が天京を包囲し、連日の砲撃を加えたことで、市街は炎に包まれた。
天王・洪秀全は、城内で深刻な飢餓と病に苦しみ、1864年6月1日に死亡した。
洪は「甜露」と呼ばれる雑草を食べ続けた結果、栄養失調で体を壊しながらも薬を拒否したため、病死したとされる。
7月19日、清軍は総攻撃を敢行し、天京は陥落。太平天国は実質的に滅亡した。
この日以降、洪宣嬌の行方は史料から完全に姿を消す。
研究者や伝承の中では、彼女の最期をめぐっていくつかの説が語られている。
【説1】城内で戦死した
最も有力とされるのは、洪宣嬌が女兵を率いて最後まで天王府を守り、城門付近で壮絶な戦死を遂げたという説だ。
彼女は幼い頃から鍛えた武芸を駆使し、弓と双刀で清軍八旗兵に立ち向かったと伝えられる。
ただし、当時の清側史料には彼女の戦死に関する記述はなく、真偽は不明である。
【説2】洪秀全による処刑
もう一つの説は、天京事変後の派閥抗争で洪秀全と対立し、処刑されたというもの。
楊秀清が粛清された後、洪宣嬌が韋昌輝に接近したことが洪秀全の不信を招き、秘密裏に処刑されたとする伝承がある。
ただし、史料による記録は断片的で、裏付けは乏しい。
【説3】難民に紛れて逃亡した
天京陥落時、数十万の住民が難民となり四散した。
洪宣嬌もその混乱に紛れ、南方へ逃亡したとする説がある。
一部の民間の記録には「広州で洪宣嬌を見た」という証言が残っており、香港やマカオ経由で海外へ脱出した可能性も指摘されている。
【説4】アメリカで医者になった
最も異色なのが、洪宣嬌が海外へ渡り、アメリカ・旧金山(サンフランシスコ)の唐人街で医師として生き延びたという説だ。
実際に、現地の中国移民史料には「宣嬌医師」の名が散見されるが、太平天国の洪宣嬌本人かどうかは確証がない。
このように、いずれの説にも決定的な史料は存在せず、洪宣嬌の最期はいまだ謎に包まれている。
農家の娘から天父の娘、そして女将軍へと駆け上がった彼女は、太平天国の滅亡とともに歴史の表舞台から忽然と姿を消した。
美貌、野心、権力、信仰…さまざまな顔を持った洪宣嬌の最期をめぐる謎は、今も解き明かされていない。
参考 : 『天父天兄聖旨』『太平天国起義記』他
文 / 草の実堂編集部
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