春秋戦国

『古代中国』戦国最強の将軍は誰か? 〜白起・王翦・李牧・廉頗の比較と評価

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戦国時代の四大名将とは?

戦国時代(紀元前5世紀~紀元前221年)は、中国全土が戦乱に巻き込まれた時代である。各国は生き残りをかけて争い、多くの名将が戦場にその名を刻んだ。

その中でも、白起(はくき)、王翦(おうせん)、李牧(りぼく)、廉頗(れんぱ)の四人は特に傑出した将軍であり、後世「戦国四大名将」と称される。

彼らは異なる戦術を駆使し、それぞれの国を支えたが、果たして誰が「最強の将軍」と言えるのだろうか。

今回は、彼らの生涯や戦績を振り返り、戦国最強の将軍は誰なのかを比較・評価していきたい。

白起 〜「人屠」と恐れられた殲滅戦の天才

白起

画像 : 白起 public domain

白起(はくき)は、戦国時代の秦の将軍であり、「人屠(じんと)」、すなわち「人を屠る者」と恐れられた。

彼の戦いは単なる殺戮ではなく、戦略的な殲滅戦を徹底することに特徴があった。敵の補給線を断ち、退路を封じ、徹底的に追い詰めることで戦場から逃れる手段を失わせ、降伏した兵すらも処刑することで、敵国に深刻な戦力喪失を強いた。
これは単なる残虐性ではなく「敵を完全に壊滅させることで再起を許さない」という合理的な戦略でもあった。

白起がその才能を発揮し始めたのは、紀元前293年の伊闕(いけつ)の戦いである。

この戦いで彼は韓・魏の連合軍を破り、24万もの敵兵を討ち取ったと伝えられる。続く紀元前278年には、楚の首都・郢を攻略し、楚国を南方へと追いやった。さらに、紀元前273年の華陽の戦いでは韓・魏の連合軍を破り、13万の敵兵を斬首した。
これらの戦いは、白起の殲滅戦の典型例といえるだろう。

そして、白起の名を決定的にしたのが、紀元前260年の長平の戦いである。

画像 : 長平の戦い イメージ 草の実堂作成

彼は廉頗に代わって総大将となった趙括(ちょうかつ)の未熟さを見抜き、巧妙な戦術で趙軍を包囲。補給を断たれた趙軍は46日間の籠城の末に戦意を喪失し、降伏を余儀なくされた。

降伏した趙兵は40万人を超えたが、白起は「彼らを生かせば、再び戦場に戻り秦の脅威となる」と判断し、少年兵240人を除いて全員を処刑。

これにより趙は壊滅的な打撃を受け、以降秦に抗する力を失った。

王翦 〜慎重かつ冷徹な智将

画像 : 王翦 public domain

王翦(おうせん)は、戦国時代末期に活躍した秦の将軍であり、慎重かつ冷徹な戦略で数々の勝利を収め、秦の天下統一に大きく貢献した。

彼の用兵術は決して派手ではなかったが、無駄な戦いを避け、確実に勝利を積み重ねることに長けていた。

王翦の活躍が本格化したのは、秦王政(後の始皇帝)の時代である。

紀元前236年、王翦は楊端和・桓齮とともに趙を攻撃し、9城を奪取。
紀元前229年には、秦軍の主力を率いて趙の攻略を担当し、翌年、邯鄲を陥落させた。
紀元前226年、燕に侵攻し服属させる。

王翦の最大の功績は、楚の征服である。
秦は当初、若き将軍・李信に20万の兵を与え、楚を攻めさせた。しかし、楚軍の奇襲を受けた李信の軍は大敗してしまった。
秦王政はこの失敗を受け、王翦に60万の兵を与えて再び将軍職を委ねた。

王翦が楚に侵攻すると、楚軍は攻めあぐね次第に疲弊していった。これを見計らい、王翦は一気に攻勢を仕掛け、ついに楚軍を壊滅させた。

王翦は自己保身にも長けていた。彼は戦中、秦王政に何度も使者を送り、「褒賞として美田や屋敷を賜りたい」と請願した。
これは秦王政の猜疑心を解き、「反乱の意思はない」と示すためであったという。

李牧 〜趙国を守り抜いた名将

画像 : 李牧 public domain

李牧(りぼく)は、戦国時代末期の趙の将軍である。

彼は、匈奴との戦いで防御戦を徹底しながら大勝を収め、さらに秦との戦いでは巧みな戦術を駆使して幾度も勝利を重ねた。

李牧の軍事的才能が最初に発揮されたのは、北方の代郡・雁門郡での匈奴との戦いであった。
彼は籠城戦を基本とする防衛策をとり、匈奴の略奪を避けながら戦力を温存する方針を採った。この消極的な戦術は、趙王や周囲の者たちから「臆病」と見なされたが、李牧は頑なに方針を曲げなかった。

その結果、一時は更迭されるが、後任の将が積極策をとったことで大敗を喫し、結局、趙王は再び李牧を召し戻すこととなった。
李牧の復帰後は、十数年間にわたって趙の北方が侵されることはなかった。

その後、趙は秦の侵攻を受けることになる。
趙奢(ちょうしゃ)や藺相如(りんしょうじょ)といった名将・名臣も相次いで世を去り、長平の戦い(紀元前260年)では壊滅的な敗北を喫し、廉頗も趙を去ってしまう。

趙の国力は著しく低下し、秦の圧力に対抗できる将軍は李牧のみとなった。

紀元前233年、秦の名将桓齮(かんき)が趙の赤麗および宜安を攻めたが、李牧はこれを迎撃し、大勝を収める。
さらに、紀元前232年には秦の番吾への侵攻を阻止し、秦軍を再び撃退した。

この時、李牧は防御戦に徹するだけでなく、秦軍の補給路を断ち、敵を疲弊させたうえで奇襲を仕掛けるという柔軟な戦術を展開している。

廉頗 〜堅牢な防御戦術を駆使した老将

画像 : 趙の名将・廉頗(れんぱ)public domain

廉頗(れんぱ)も、趙を代表する名将である。

若い頃から勇猛果敢な将軍として知られ、攻撃戦においても実績を積んだが、特に防御戦の名手として名を馳せた。

廉頗が歴史にその名を刻んだのは、紀元前283年の斉討伐戦である。彼は昔陽を攻略し、翌年には陽晋(現在の山東省巨野県)を陥落させた。この功績により上卿に任じられ、戦国時代を代表する将軍となった。

特に知られるのが、長平の戦い(紀元前260年)の初期段階における防衛策である。

廉頗は秦の軍勢を前にして、正面からの決戦を避けて持久戦に持ち込んだ。これは、遠征軍である秦軍の兵站を圧迫し、長期戦の消耗を狙った戦略であった。
しかし、趙国内では「慎重すぎる」との批判が高まり、趙王・孝成王は廉頗の更迭を決断する。

廉頗の後任には、実戦経験の乏しい趙括(ちょうかつ)が起用され、積極的な攻勢に出たが、白起の巧みな戦術によって敗れ、40万もの降伏兵が生き埋めにされた。

紀元前251年、燕が趙に侵攻すると、廉頗は燕軍を撃破し、燕の都・薊(けい)を包囲。
燕は五つの城を割譲して和睦を求めた。

この勝利により、趙王は廉頗を「信平君(しんぺいくん)」に封じ、相国代行に任じた。

画像 : 藺相如(りんしょうじょ)聖君賢臣全身像冊 public domain

廉頗は、藺相如との「刎頸(ふんけい)の交わり」の逸話でも知られている。

当初、廉頗は藺相如の出世を妬んで敵意を抱いていたが、藺相如の度量の大きさを知ると謝罪し、命を預け合うほどの信頼関係を築いたという。

最強の将軍は誰か?

ここでは、彼らの戦術と戦績を比較し、誰が最も優れた将軍であったのかを考察してみたい。

画像 : 60万の大軍を率いる王翦 イメージ 草の実堂作成

白起は、戦場での殲滅戦を徹底し、敵軍を根こそぎ破壊する戦術を得意とした。その圧倒的な戦果は他の将軍と比べても突出しており、特に長平の戦い後の影響は計り知れない。
ただし、白起の戦術は苛烈すぎるがゆえに敵国の憎悪を買い、長期的な戦略としては必ずしも最適とは言えないだろう。

王翦は、確実に勝てる状況を作り出すことを重視した。戦を戦術だけではなく、政治や兵站、敵国の内情まで考慮した上で決定し、徹底した計画をもって戦った。
王翦は一戦ごとの勝利だけではなく、国家の存続を見据えた長期的な戦略思考を持っていたといえるだろう。

李牧は、匈奴戦では長期間の防衛戦を展開しつつ、相手が油断した隙を突いて大打撃を与えるなど攻守に優れていた。
秦との戦いでは、迎撃戦と機動戦を巧みに組み合わせ、戦局をコントロールする能力を発揮した。
王翦や白起のような大規模な侵攻戦での実績は少ないが、もし彼が秦の将軍としてその機会を与えられていれば、大きな戦果を挙げていた可能性は高いだろう。

廉頗は、戦局の流れを見極めながら柔軟に戦う将軍だった。
燕討伐戦では燕軍を撃破し、攻撃面においても優れた手腕を発揮している。ただし実績的には、堅実な防御戦や持久戦における安定した指揮が最も評価される形となっている。

もし「戦場における圧倒的な勝利数」で最強の将軍を決めるとすれば、それは白起であろう。彼は生涯で一度も敗北せず、敵国の戦力を根本から削ぎ落とした。その戦績は戦国時代において他に類を見ない。

しかし、戦争において最も重要なのは単なる勝利数ではなく、いかに国家を存続させ、その覇権を確立するかである。
その観点からすれば、秦の統一に貢献した王翦こそが、最も優れた将軍だったと言えるのかもしれない。

参考 : 司馬遷『史記』「白起・王翦列伝」「廉頗・藺相如列伝」他
文 / 草の実堂編集部

草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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